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新庄 厚信(しんじょう あつのぶ、天保5年4月17日(1834年5月25日)〔『岡山県歴史人物事典』537頁。〕 - 明治36年(1903年)3月8日〔『幕末維新大人名事典 上巻』671頁。〕)は、岡山県権令、岡山市長。通称は作右衛門、久左衛門。号は載庵〔。 == 経歴 == 岡山藩士奥坊主・友野久悦の二男として生まれ、同藩士新庄直虎の養子となった〔。尊王攘夷運動が盛んになると、諸藩の志士と交わった。1864年(元治元年)の禁門の変の際には、藩命を奉じて長州藩に赴き、藩主毛利敬親の入京を思いとどまらせた。その後、幕府が長州征討をおこすと、岡山藩の外交掛として斡旋に努めた。 1868年(明治元年)、徴士権弁事となり、翌年に柏崎県権知事となった。1871年(明治4年)に岡山県参事となり、1873年(明治6年)には岡山県権令となった。同年職を辞すが、1874年(明治7年)に置賜県権令に任命され、五等判事を兼ねた。しかし1876年(明治9年)、置賜県の廃止とともに官を辞した。同年、国立銀行条例が制定されると、士族の生活安定のため、岡山に第二十二国立銀行を創設し、頭取となった。岡山紡績所の設立にも尽力〔。 その後、1989年、市町村制が施行されると、岡山市会議員、市参事会員に選出された〔。さらに1890年(明治23年)には岡山市長に選出され、水害対策や教育事業に尽力した〔新庄厚信特旨叙位ノ件(国立公文書館 アジア歴史資料センター) 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新庄厚信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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