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新民党(しんみんとう)とは、第三共和国・維新体制時代の韓国の保守政党で、最大野党である。第二共和国期にも新民党は存在したがここでは第三共和国、第四共和国時代の新民党について取り上げる。 == 概要 == 朴正熙(パク・チョンヒ)政権期の1967年2月7日、同年5月の大統領選挙を前に民衆党や新韓党などの保守野党勢力が結集して創党された。結成直後に行われた大統領選挙では尹潽善を擁立したが、旧党派間での連携が十分できなかったこともあって、4年前の大統領選挙の時よりも朴正熙に大きく票を引き離され敗北した。朴正熙の3選を可能にする3選改憲(1969年)〔当時の大韓民国憲法では大統領の再任は1回のみに制限されていた。〕では、改憲案に賛成した自党の議員3名の職を剥奪〔当時の憲法では、党が解散した場合、党所属の議員はその議員職を失う(第38条)規定があり、その制度を新民党は利用した。なお再結成するまでの期間は院内会派を結成した。〕するために党を一旦解党し、再び新民党を結成するという離れ業を行なってまで改憲反対の姿勢を明確にした。翌々年の大統領選挙では金大中候補を擁立し、現職朴正熙に対決姿勢を示して善戦した。しかし、大統領選挙後に行われた第8代総選挙で「珍山波動」が発生、これをきっかけに党内対立が高まり、1972年9月には主流派(珍山派)と反主流派(反珍山派)が別個に党大会を開催する事態となり、反主流派の一部は脱党して民主統一党を結成した。 維新体制時代の1974年2月に柳珍山総裁が病死すると、同年8月の党大会で金泳三を選出し、対立を避け与党との妥協を試みていた柳珍山とは変わって、民主回復と憲法改正の主張を正面に掲げて政府・与党に対抗した。しかし、金泳三の強硬路線を巡って、主流派(金泳三派)と非主流派(反金泳三派)に分裂し、党内対立が激化、1976年9月に行なわれた党大会で金泳三が総裁の座を追われる結果となった。 1978年12月の第10代総選挙では与党民主共和党を得票率でわずかながら上回り(新民32.8%、共和31.7%)、政権に対する批判の根強さを示した。そして、翌1979年、金泳三を再び総裁に選出すると、新民党は反軍政の姿勢を鮮明にした。しかし、全斗煥が5・17クーデターによって政治的実権を掌握すると、政治活動を停止させられ〔youtube 「1980.5.19 ニュース 光州事件 衆議院ハプニング解散 」。戒厳軍により与党共和党と新民党の本部が閉鎖されたことが報じられている。〕、1980年10月27日に公布された第五共和国憲法附則により解散させられた。翌1981年に結党された民主韓国党には、金泳三・金大中を除外し、政治活動規制措置から免れた党内の穏健派のみが迎えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新民党」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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