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新潟町奉行(にいがたまちぶぎょう)は江戸時代に新潟町(現在の新潟県新潟市)が越後長岡藩の所領であった時代に存在した越後長岡藩の役職。新潟町は天保14年(1843年)に江戸幕府に上知されて天領となるが、天領になって以降の新潟町統治の幕職である新潟奉行については遠国奉行#新潟奉行を参照。 == 概要 == 長岡藩は当初、郡奉行配下として新潟町代官を設置し、新潟町に派遣して管理した。延宝4年(1676年)より、専任の新潟町奉行を新設して町政全体を管理した。配下に検断、町老、町肝煎、町代を持つ。 初代の新潟町奉行のみ、担当の代官2名をそのままこれに昇格させたといわれるが、「新潟市史・資料編」掲載の『天保十亥年正月 貞享元子年より諸役人留』(神明町肝煎の佐藤利兵衛筆写)〔新潟町奉行に関しての内容は天保7年までで題名の天保10年は筆写の年の可能性がある。ちなみに当史料では越後長岡藩の中老、中老格、奉行などの長岡藩役職者についても書かれていたが新潟市となんら関係ないためか省略した旨が同書にある〕。では当初、新潟町代官の定員は1名で延宝4年5月17日をもってそれまでの本富弥五左衛門を新潟町代官の最後とし、代わって就任した竹垣数右衛門を初代新潟町奉行としている。さらに翌年11月(1677年)に竹垣が新潟町奉行に在任のまま、山本七郎右衛門が就任したことで、新潟町奉行は定員2名体制となっている。 役高は150石高という説もあるが『新潟市史』の前掲史料では川井(河井)代右衛門が140石、安田杢が230石、大瀬庄左衛門が190石の足高となっており、特に大瀬と川井は同時期の就任者なのでこれより役高は時代により差があり、新潟町奉行2名がともに同じ役高ではなく、片方の方が役高が高い傾向がある。また、役格は者頭格だが、番頭格になったものがいた。基本的に長岡城下の町奉行(新潟町奉行と区別して長岡町奉行とも)より低く、郡奉行より高い役職であった。 享保年中や新潟明和騒動の際には、3名に増員しているが、ほぼ定員2名で推移。時代により2名中片方だけ人員入れ替えの時もあれば、2名同時に入れ替えとなることもある。また、新潟町奉行は新潟町に居住するが少なくとも天保年間は2名が同じ屋敷ではなく、片方が上屋敷、もう片方が下屋敷に居住していることが同史料にある。 河井継之助の先祖はほぼ代々この職についているが、別に一部の藩士による世襲というわけではない。なお、「長岡市史」では長岡藩職についての説明があるが、新潟町奉行の説明はないので、長岡市史での役職の内容は新潟町上知以降の内容である可能性が高い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新潟町奉行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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