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新田義貞 : ミニ英和和英辞書
新田義貞[にった よしさだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しん]
  1. (n,n-suf,pref) new 
新田 : [しんでん]
 【名詞】 1. a new rice field 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 

新田義貞 : ウィキペディア日本語版
新田義貞[にった よしさだ]

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。
河内源氏義国新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位正四位下、左近衛中将明治15年(1882年)8月7日正一位
鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった〔安井『太平記要覧』173頁〕。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある〔田中・29-38頁〕。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である〔安井『太平記要覧』173頁〕。
鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった〔峰岸・5頁〕。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し〔安井『太平記要覧』173頁〕、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した〔峰岸・5頁〕。
死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。
== 生涯 ==

===出生と元服===

新田義貞は新田氏本宗家の7代当主・新田朝氏の嫡男として生まれた。
義貞の生年については判然としていない〔奥富・65頁〕。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ〔奥富・66頁、峰岸・13頁、山本・45頁〕、生年は正安2年(1300年)前後と考えられている。辻善之助は37歳没、峰岸純夫は39歳没説を採用している。
また『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が里見氏からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている〔奥富・66-68頁〕。
義貞の出生地には三つの説がある。
:
*宝泉村由良(太田市):『新田義貞正伝』 より
:
*生品村反町館(太田市): 『新田氏根本資料』「筑後佐田・新田氏系図」より 
:
*碓氷郡里見郷(高崎市):『新田正伝記』「里見氏系譜」より
とする。しかし、いずれも特定できる資料とは言えず定説には至っていない。
義貞の少年時代については、現存する史料に乏しく、検証は難しい。
義貞の育った上野国新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)は、気象の変化が激越で、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、笠懸野という地名で呼ばれていた。義貞はそのような風土の中で、笠懸野で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている〔峰岸・32頁〕。
正和3年(1314年)、13歳で元服したことが『筑後佐田系図』に示されているが、この史料は信頼性に乏しいとされる〔奥富・70頁〕。文保2年(1318年)には、義貞が長楽寺再建のため、私領の一部を売却していることが文書に記述されていることから、少なくともこの年以前には元服していたと考えられる。
新田政義足利義氏の娘を娶って以降、新田本宗家は代々足利本宗家当主を烏帽子親として擬制的親子関係を結んだと考えられ、新田本宗家の当主(・朝)は足利本宗家の通字である「氏」を偏諱として受けており〔田中大喜「中世前期下野足利氏論」 田中編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0 P.19。〕、“義貞”の名前に「氏」が付かないのは、足利本宗家を継承しながらも数年で没したとされる足利高義 (尊氏の異母兄)が当主の時期に元服して、その偏諱である「義」を与えられたからだと考えられている〔田中大喜「中世前期下野足利氏論」 田中編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0 P.43 脚注(51)〕〔田中、2011年、p.33-35。〕。また、義貞の烏帽子親と推定される足利高義は正和4年(1315年)頃に足利氏の家督を継いで(「鶴岡両界壇供僧次第」)、文保元年(1317年)に死去したとされている〔『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)の高義の記事中の“高義 嫡子、号円福寺殿、文保元年六月廿四日卒”による。田中大喜編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0 、p.386(田中大喜「下野足利氏関係史料」内)にも掲載あり。〕ため、この事も義貞の元服時期を推定する根拠となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「新田義貞」の詳細全文を読む




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