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新田 貞方(にった さだかた)は、南北朝時代の武将。新田義貞の孫で、新田義宗の長子。兄弟とされる岩松満純(新田容辻王丸)と横瀬貞氏があり、後に岩松氏と横瀬氏の養子となったという。 == 生涯 == 信濃国で生まれ育ったという。少年期に父義宗が死去したことにより、代わって一族の脇屋義則が新田党を指揮したが、長じて陸奥国の南朝方拠点であった霊山城に赴き、脇屋義則と合流、南朝方を指揮する。一時は奥州で勢力を誇り、伊達氏らと相馬氏、蘆名氏らを攻める。しかし、北朝方が盛り返し、敗れて地下に潜伏する。 元中9年/明徳3年(1392年)、南北朝の合一が成った。しかし、合一条件はすぐに反故にされ、各地で南朝残党が「後南朝」として活動を再開する。関東では鎌倉公方足利満兼が病床に伏せ、明日をも知れぬ状態となる。これを知った貞方は関東の旧南朝勢力に書状を出し決起を促した。これがもとで、貞方の潜伏先が鎌倉府に露見し、貞方父子は侍所千葉兼胤(新田義貞の曾孫〔千葉兼胤の祖父にあたる氏胤は義貞の娘を娶っている。〕)に捕らわれた。応永16年(1409年)7月22日、祖父義貞ゆかりの鎌倉七里ヶ浜で嫡子の貞邦と共に斬られた。または没年は翌応永17年(1410年)の説もある。貞方の流とされる堀江氏が現存する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新田貞方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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