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新田 長次郎(にった ちょうじろう、安政4年5月29日(1857年6月20日) - 昭和11年(1936年)7月17日)は、明治時代から昭和前期の実業家。号は温山。愛媛県出身。新田帯革製造所(現 ニッタ)の創業者として知られる。 == 経歴 == 安政4年(1857年)、伊予国温泉郡山西村(のちの味生村字山西、現在の愛媛県松山市山西町)に農家の新田喜惣次の次男として生まれる。 明治10年(1877年)、21歳の時に大阪に出て、藤田組製革所に入り、製革技術を習得した。明治13年(1880年)に、藤田組製革所の経営不振から解雇されが、2年後の明治15年(1882年)に大倉組製革所に入所、明治17年に工場の仕込部主任となり、なめしの準備工程一切の指揮を任された。 明治18年(1885年)に新田組として独立し、大阪市西成郡難波村久保吉(現在の大阪市浪速区久保吉2丁目)に空家を借り、製革工場を起こした。当初は、製靴用の薄物油革を製造していたが、知人の出資を得て工場を拡張し、明治21年(1888年)には大阪紡績(現在の東洋紡)の依頼で動力伝動用革ベルトの国産化に日本で初めて成功、新田製地球印帯革として、その後、全国で設立された紡績会社に販路を広げていく。明治30年(1897年)には、長次郎の単独経営となる。明治34年(1901年)に、東京出張店を開設し、その後各地に出張店を設置した。明治35年(1902年)には、実業功績者として、緑綬褒章を授与された。明治37年(1904年)には、革ベルト接合法で最初の特許を取得し、これにより、耐久性に優れた製品化が可能となった。 この間、2度の海外視察を行っている。まず、明治26年(1893年)、シカゴで開催された世界大博覧会出品のため渡米し、サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークを回った後、ロンドン、パリを訪れ、多くの製革所を視察するとともに、製革機械を買い入れ、工場の改善に大いに役立てた。パリの日本公使館では同郷(松山)の代理公使加藤恒忠と知り合い、以後交友を結んだ。次いで明治33年(1900年)、パリ万国博覧会への製品の出品に合わせて、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、アメリカと海外視察を行った。 明治42年(1909年)には、個人企業から合資会社となり、合資会社新田帯革製造所として発足し、長次郎は無限責任代表社員となった。明治44年(1911年)には、革をなめすためのタンニンを製造するため、良質のタンニンを含む檞(かしわ)の林野が広がる北海道幕別町止若(やむわっか)に、タンニン固形エキス製造工場の操業を開始した。 大正9年(1920年)に政府の臨時産業調査委員に選ばれ、大正10年(1921年)に帝国発明協会から発明功績者として表彰された。 昭和11年(1936年)に脳出血で倒れ、2日後に逝去した。享年80。四天王寺において社葬が執り行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新田長次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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