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藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市にあった飛鳥時代の都城。条坊制を布いた唐風都城である。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。 『日本書紀』には新益京〔持統天皇6年正月12日(692年2月4日)条。読みを「あらましのみやこ」「あらましきょう」「しんやくのみやこ」「しんやくきょう」などとしている。〕と著されている。藤原京の名は、宮が同じく『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に近世になって名づけた学術用語である。本項ではこの藤原宮についても述べる。 == 概要 == 史料〔『日本書紀』持統天皇4年10月(690年11月)条「壬申に、高市皇子、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同年12月(691年1月)の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」。持統天皇8年12月(695年1月)条「藤原宮(ふじわらのみや)に遷(うつ)り居(おは)します」〕には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した(一説に12月6日(694年12月30日)昼前に遷行したとされる)、とある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる〔世界大百科事典 第2版『藤原宮』〕。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられ〔、この宮を中心に据え条坊を備えた宮都建設となった。 実際の建設は、その後の研究により、すでに天武天皇5年(676年)には開始され(これを倭京と呼ぶ)〔藤原京に先立つ倭京については諸説があるが、飛鳥宮周辺の施設を含んで藤原京が建設されたため、まだ飛鳥宮が置かれていた時代に遷宮以前の藤原京に関連する諸施設、諸制度に「京」の名を冠して呼んでいた可能性が指摘されている。〕、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った慶雲元年(704年)とも言われ、着工から28年が経過したことになる〔藤原京の発掘調査などから明らかにされた。〕。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住したが、完成から4年後の和銅元年(708年)に元明天皇より遷都の勅が下り、和銅3年(710年)に平城京に遷都された。その翌年の和銅4年(711年)に、宮が焼けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原京」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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