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新納 中三(にいろ ちゅうぞう/なかぞう、天保3年4月15日(1832年5月15日) - 明治22年(1889年)12月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初年にかけての薩摩藩家老。通称の刑部でも知られる。字は久脩。諱が中三〔本来諱が久脩であるべきだが、晩年は中三を諱とし、久脩を字とした。〕。幼名は万次郎、のち次郎四郎、次郎兵衛。 == 略歴 == 天保3年(1832年)、鹿児島の西千石で薩摩藩家老・新納久仰の子として生まれる。母は新納久敬の娘。新納氏は島津氏の庶流であり、薩摩藩内にあって一所持(いっしょもち)と呼ばれる家格の譜代重臣で家禄850石の家柄であった。家祖である戦国時代の武将・新納忠元からは13代目となる。 島津斉彬、島津茂久の2代に仕え、はじめ軍役方総頭取として兵制改革を行い、西洋式軍制を採用。文久2年(1862年)には軍役奉行となる。翌年7月に起きた薩英戦争で兵制改革の実績を発揮し、賞賛された。慶応元年(1865年)には藩大目付に昇進。薩摩藩が藩費で派遣した密航留学生を五代友厚・松木弘安とともに引率して薩摩藩遣英使節団としてイギリスに渡航。変名を石垣鋭之助と称した。その後フランス、プロイセン、オランダ、ベルギーを歴訪・視察した。ロンドンにおいてベルギー貴族(フランス国籍)のモンブラン伯爵から貿易商社設立の話を持ちかけられ、ブリュッセルにおいて薩摩藩とモンブランの商社設立契約を結んだ。また、来る1867年のパリ万国博覧会参加を協議して、翌慶応2年(1866年)に帰国した。 帰国した年、勝手方家老に昇進して開成所を所管。また同年、息子の竹之助をフランスへ留学させている。藩政においては、先述のパリ万博準備など外交事務を担当した。戊辰戦争時には京都にあり、明治維新後の新藩政において再び大目付となって藩政改革に尽力した。 明治4年(1871年)の廃藩置県で薩摩藩消滅後に退職するが、明治9年(1876年)に七等判事として新政府に出仕。その後また一時期退職したが、明治18年(1885年)奄美大島島司となり、特産品である黒糖の流通改革に従事。負債に苦しむ島民のために尽力したが、翌年に突然免官された。これは黒糖流通を独占していた鹿児島県商人による画策といわれる〔『国史大辞典』〕。 しかしその後も中三は島民から救世の恩人と敬慕された。 明治22年(1889年)、没。享年58。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新納中三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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