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新野 親矩(にいの ちかのり)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。 == 略歴 == 新野氏は今川氏一族であり、現在の御前崎市新野地区に居住する氏族であった。親矩も新野新城(舟ケ谷城)の城主として今川氏に出仕していた。 主家・今川氏は桶狭間の戦いの後、急速に衰えており、今川氏連枝であった三河国の松平元康などの離反が相次ぐ中、親矩は今川氏に忠節を尽くした。永禄5年(1562年)、同じ遠江国人であった井伊氏の当主直親が小野道好の讒言により、謀叛の嫌疑を掛けられて今川氏真に暗殺された。親矩は井伊氏の縁戚であったこともあり、妹の娘で井伊家の家督を継いだ直虎や、直親の遺児である直政を保護している。このことは井伊氏の菩提寺、龍潭寺の住職に「井伊氏1000年の歴史で、最大のピンチを救った」と評されている。 その後も主家今川氏の衰退は止まらず、永禄6年(1563年)からは遠江国衆の曳馬城主飯尾連竜が犬居城主天野景泰、元景父子、二俣城主松井宗恒らとともに今川氏に謀叛を起こした。これは遠州錯乱と呼ばれる遠江一国を巻き込んだ謀叛であるが、親矩はこの時も今川方として戦い、曳馬城を攻めた際に三浦正俊、中野直由らとともに討死にした。 『武家事紀』では飯尾連竜は一旦許されたが、永禄8年(1565年)12月20日に氏真により駿府に呼び出された際に氏真は連竜を切腹させたとある。この際に連竜は自身の屋敷に立て籠もり、兵士を所々に出して力戦し、打手の大将の新野親矩をはじめとして多くが戦死し、その後連竜は自殺した、とされている。 死後、左馬武神社に祀られる〔とともに、幕末になって井伊直中の十男が親矩の子孫木俣守易の養子となった後、新野氏の名跡を再興し新野親良を名乗っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新野親矩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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