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新間 寿(しんま ひさし、1935年3月22日〔『リングの目激者』、『新・リングの目激者 歴史の証人』より。〕 - )は、元新日本プロレス専務取締役兼営業本部長及び元WWF会長。現在は新間事務所代表取締役社長。 「過激な仕掛け人」の異名を持ち、昭和期の新日本プロレスを語るのに欠かすことのできない人物である。実父は東京プロレスを立ち上げ、新日本プロレス役員も務めた新間信雄。息子の新間寿恒もユニバーサル・プロレスリング(後にFULLと改称)を立ち上げるなどプロレス業界の裏方で働いている。 == 来歴 == 1935年、東京都新宿区にて生まれる。 中央大学に入学後、柔道部に所属する傍ら、強い男に憧れ、当時日本橋人形町にあった日本プロレスの道場にボディビル練習生として通う。この時後に新間の人生を左右する事となる豊登と知り合う。大学卒業後、大手化粧品メーカーのマックスファクターでのサラリーマン生活を経て、1966年、豊登の誘いをうけて、当時、寺の住職を務めていた〔「プロレス醜聞100連発!!」P65 竹内宏介著(1998年、日本スポーツ出版社)〕実父の信雄と共に東京プロレスの立ち上げに携わる。そこからアントニオ猪木との関係が生まれ、東京プロレス倒産後、小来川鉱山鉱夫、ダイナパワーセールスマン、寿屋パン店経営者を経て1972年に新日本プロレス入社。専務取締役営業本部長の肩書きで、猪木の右腕として数々の名勝負を実現へと導いた。その中で最大の功績は「アントニオ猪木対モハメド・アリ」戦を実現させたことである。また、タイガーマスクを現実の世界に登場させ、IWGPの構想を提唱するなど、新日本プロレスに残した足跡は計り知れない。1980年代前半の全盛期には「プロレスブームではなく、新日本プロレスブーム」との発言も残している(新間の言う通り、1980年代にはライバルの全日本プロレスの中継は新日本よりも早くゴールデンタイムから撤退しており、第三団体の国際プロレスに至っては1981年夏に崩壊している。)。アリ戦の巨額の赤字が問題となり形式上降格された時期があったが、その時期も変わらず辣腕を振るっていた。 1983年に「新日本クーデター未遂事件」の責任をとる形で解任され(この時猪木も代表取締役社長を一時解任されている)、UWFを設立するが、1年ほどで崩壊し、その後も新日本の裏方を続けた。猪木がNWA加盟を拒否されたため、新日本代表としてNWAの名義人となっていたのも、新間と坂口征二であった。また、その手腕を買われてジャパン女子プロレスの経営にも関与し、子飼い的な存在であったグラン浜田をコーチとして送り込んだこともある。 また、ジャパン女子プロレスの経営不振に際しては、空手の士道館や男子プロレスなどを融合した『格闘技連合』としての団体再建プランも画策していたとされる〔「プロレス虚泡団体の真実!!」P13-17 竹内宏介著(1998年、日本スポーツ出版社)〕。 息子である寿恒が代表兼プロモーターを務めたユニバーサル・プロレスリングでも、同団体の役職に就くことはなかったものの、所属選手であった浅井嘉浩(現:ウルティモ・ドラゴン)のSWS移籍騒動の際にも団体を代表する形で、当時SWS社長であった天龍源一郎に対して直談判しているなど、団体に対する影響力を保持していた〔「プロレス虚泡団体の真実!!」P32-36,50-52,78-80〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「新間寿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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