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李 方子(り まさこ、〈イ・バンジャ、り ほうし〉、1901年(明治34年)11月4日 - 1989年4月30日)は、日本の元皇族。梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠の妃。 == 生涯 == === 皇族時代 === 1901年(明治34年)11月4日、梨本宮守正王と伊都子妃の第一女子として生まれる。 皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補のひとり〔候補者には他に、従姉妹の良子女王(久邇宮家)らがいた〕として名前が取り沙汰されるが、学習院女子中等科在学中に李王世子である李垠と婚約した。彼女が自らの婚約を知ったのは、避暑のため梨本宮家大磯別邸に滞在していた1916年(大正5年)8月3日の早朝、手元にあった新聞を何気なく開いた際で、大変ショックを受けたという〔1984年6月29日 読売新聞「[人]李方子=2 わずか15歳 “政略結婚”に涙」〕。二人の結婚は、日韓併合後の「内鮮一体」を目的とする政略結婚であり、山縣有朋による策略説もある〔。 この結婚については表向きは「天皇陛下の御沙汰」によるものとされているものの、梨本宮家は適齢期になった方子の結婚相手を探していたが、なかなかまとまらなかったため、実は梨本宮家から朝鮮総督に縁組を申し込んだものであった〔「ごく内々にて申しこみ、内実は申しこみとりきめたるなれども、都合上表面は陛下思召により、御沙汰にて李垠殿下へ遣す(つかわす)様にとの事になり、有難く御受けして置く。しかし発表は時期を待つべしとの事」(小田部 2008 )〕。 1918年(大正7年)に納采の儀が行なわれた。女子学習院卒業後、1919年(大正8年)1月25日に婚儀の予定だったが、直前に李太王(高宗)が脳溢血のため死去。これには日本側の陰謀による毒殺説が存在し、三・一独立運動の引き金ともなった〔1984年6月30日 読売新聞「[人]李方子=3 父王は“毒殺”愛児も同じ運命に 雷鳴の夕に絶命」〕。 このため婚儀は延期された。 1920年(大正9年)4月28日、李垠と結婚。婚礼の直前に婚儀の際に朝鮮の独立運動家による暗殺未遂事件(李王世子暗殺未遂事件)が発生した。婚礼に際しては、和装(十二単)・洋装に加え、朝鮮服も準備された。 方子妃は、自分に課せられた日本と朝鮮の架け橋としての責務を強く自覚し、祖国を離れて日本で暮らす夫を支えた。1921年(大正10年)、第一子・晋が誕生する。1922年(大正11年)4月、夫妻は、晋を連れて朝鮮を訪問。李王朝の儀式等に臨んだが、帰国直前に晋は急逝した。急性消化不良と診断される。李太王を毒殺されたと考えた朝鮮側による報復の毒殺説〔方子自身、著書『流れのままに』で「父母にいつくしまれたのもわずかな月日で、何も罪のないに、日本人の血がまじっているというそのことのために、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子……。もし父王さまが殺された仇が、この子の上に向けられたというなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか……。」と書いており、毒殺を疑っていたようである。〕がある一方で、日本軍部による毒殺説〔も流布されている。第一子を失った方子妃は、日本に留学した李垠の異母妹・李徳恵〔徳恵は精神・知能に先天性障害があったが、少女期には小康状態にあった。本人の項参照。〕の身辺を親身に世話した〔1925年5月30日 読売新聞「御遊学中の徳恵姫のため朝鮮料理をお学び やさしき方子妃殿下のお心尽し」〕。その後、一度の流産を経て、1931年(昭和6年)、第二子・玖が誕生した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李方子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yi Bangja 」があります。 スポンサード リンク
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