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方 本仁(ほう ほんじん)は、中華民国の軍人。当初は北京政府、直隷派に属した。後に国民政府(中国国民党)に転じ、張学良を易幟させるなどの活動を行った。字は耀亭、耀廷。 == 事績 == === 直隷派としての活動 === 1902年(光緒28年)、武昌右旗馬隊営に入隊する。その後、湖北陸軍特別小学堂に入学し、1907年(光緒33年)には北京陸軍軍官学堂(後の北洋陸軍大学)第2期に進学した。1909年(宣統元年)に卒業すると、禁衛軍騎兵排長(小隊長に相当)〔団風県人民政府による。徐主編(2007)、224頁によると「標哨官」。〕に任ぜられる。まもなく第6鎮第11協統領となった李純の下で方本仁は参謀長代理に任ぜられた。〔団風県人民政府による。徐主編(2007)、224頁によると第6鎮三等参謀官、二等参謀官、一等参謀官を歴任したとされる。〕 中華民国建国後の1913年(民国元年)〔団風県人民政府は「1912年」としているが、これは誤り。〕に李純が江西都督に任ぜられると、方本仁はその下で都督府参議庁庁長、陸軍将校講習所所長、督軍署参謀長などを歴任する。1917年(民国6年)、贛西鎮守使に任命される。1922年(民国11年)、新たに江西督軍となった蔡成勲の下で、方は贛南鎮守使兼粤贛辺防督弁兼援粤軍総司令に任命された。1923年(民国12年)3月、粋威将軍の位を授かる。〔団風県人民政府による。〕〔徐主編(2007)、224頁。〕 1924年(民国13年)12月、蔡成勲が広州の中国国民党討伐に失敗すると、方本仁はこの機を捉えて兵変により蔡を下野に追い込んだ。こうして方は北京政府中央から暫署江西督弁に任命され、翌1925年(民国14年)1月、正式に江西督弁に任命されている。同年11月、孫伝芳の下で五省聯軍贛軍(江西軍)総司令に任命された。しかし1926年(民国15年)3月、呉佩孚に支援された方配下の師長鄧如琢らが兵変を起こし、方は下野に追い込まれてしまう。〔〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「方本仁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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