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方臘の乱 : ミニ英和和英辞書
方臘の乱[ほうろうのらん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 

方臘の乱 : ウィキペディア日本語版
方臘の乱[ほうろうのらん]

方臘の乱(ほうろうのらん)は、1120年中国の江南地方で起こった反乱。北宋末期の宣和2年(1120年)、徽宗皇帝時代の出来事である。
== 概要 ==
花石綱事件を直接の原因とし、徽宗が行った種々の苛政を背景にして、漆園の経営者で「喫菜事魔(マニ教)の徒」である方臘(? - 1121年)の主導によって発生した。反徒は役所や寺、道観、学校を襲撃して官吏を殺害し、一時期は江南の6州52県(あるいは13州53県とも)が反乱軍の手に落ちた。方臘は自らを聖公と名乗り、永楽という年号を定めた。
折りしも北宋では、海上の盟に則り、攻撃に備えて禁軍遠征部隊を編成していた。そこから15万を割き、童貫を総司令官として南征軍を編成し、方臘討伐を開始した。童貫が長江を渡渉すると、方臘は銭塘江流域の睦州清渓に移動して童貫軍の攻撃に備えた。童貫軍は信徒数十万人を殺し尽すという過酷な戦の末に、翌年4月には方臘を捕え、開封府にてこれを処刑した。
北宋は、この戦線に禁軍を割いたことにより、との遼共同攻撃に出遅れた。また、禁軍がこの戦線で疲弊したことも、耶律大石戦での敗因の一因となった。
方臘の反乱と、童貫軍の激しい略奪もあいまって、江南の疲弊は大きなものとなった。これは宋の南遷と、その後の対金戦線での苦戦の遠因となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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