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方 虎山(パン・ホサン、1916年 - 没年不詳)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍人。中国名は李天夫。 延安派の重鎮の一人であり、金日成らの満州派(パルチザン派)とは競合関係にあり恒常的な監視を受ける立場にあったが、優秀な野戦指揮官であった方虎山は、朝鮮半島統一のために創設され戦力増強を急ぐ北朝鮮軍内にあって高い作戦指導力と組織力が評価された。朝鮮戦争開戦時の朝鮮人民軍第6師団長。 == 人物 == 1916年、咸鏡北道に生まれる〔では満州宝清県で生まれたとしている。〕。満州事変後に黒竜江省密山県の遊撃隊(東北抗日聯軍第4軍の前身)で活動。1936年、中国共産党に入党する。入党した方虎山は抜擢されてモスクワに送られ、東方勤労者共産大学で学んだ。 1939年、延安に帰還した方虎山は抗日軍政大学東北幹部訓練組で学び、のちに八路軍の部隊に配属される。 1942年、中共中央海外委員会の研究班朝鮮組で働く。 1943年から朝鮮革命軍政学校で活動し、1945年2月に同学校の第1区隊指導員。終戦後は東北に進出し、朝鮮義勇軍第1支隊(支隊長金雄)政治委員を務める。第1支隊はその後、東北野戦軍独立第4師(師長王子仁)となり1948年には第166師(師長劉子儀)となったが、方虎山は終始、政治委員を務めた。 中国は国共内戦に勝利すると軍を整理した。これにより朝鮮民族出身の人民解放軍3個師団と2個連隊が中朝秘密軍事協定(1949年3月18日)に基づいて北朝鮮に「帰国」した。人民解放軍第164師が北朝鮮第5師団、第166師が第6師団、独立第15師が第7師団(後第12師団)に改編され、八路軍出身の師団長が指揮した。 中国から北朝鮮に提供され新義州に駐屯した中国人民解放軍所属の東北義勇軍第166師は朝鮮系中国人10,000名が主体で、これを八路軍出身の方虎山が引率し訓練を行い北朝鮮第6師団とした。これら実戦経験を持つ朝鮮系中国人の部隊は北朝鮮軍の能力の向上に大きく寄与した。 北朝鮮軍第6師団は朝鮮戦争開戦劈頭の国境会戦に参加、最初に漢江を渡った北朝鮮軍となった。とくに国境会戦では分断された線路を密かに修復し、列車で開城に侵入するという奇抜な作戦を行い、韓国軍第12連隊を撃退した。漢江を渡った第6師団は湖南地域を座巻した。この功績で第6師団は近衛師団の称号を与えられ、方虎山は英雄称号を授与された。 釜山を巡る戦いの前哨戦、河東峠の戦いではアメリカ軍第3大隊を巧妙な待ち伏せ攻撃で撃退した。この時の攻撃で朝鮮戦争開戦時の韓国陸軍参謀総長だった蔡秉徳少将も戦死している。釜山橋頭堡の戦いでは第25師団と交戦した。 国連軍の大反抗である仁川上陸作戦によりソウルが奪還されると、朝鮮半島南部に包囲された北朝鮮軍の多くで脱走と投降が発生し、大半が霧散し北朝鮮本土への帰還が果たせなかった。しかし延安派の軍人が指揮する部隊では兵士の把握に努め、中でも方虎山の第6師団は占領地行政に送り込まれた文官8,000人を収容し、智異山に潜伏した後、10月末から11月初めにかけて山伝いに北朝鮮に撤収した。この功績により方虎山は中将に進級し新設の第5軍団長に抜擢されるとともに、朝鮮戦争全期間を通じて5人のみの英雄称号「二重英雄」と「国旗勲章第1級」を叙勲された。 1951年、第5軍団は東部戦線で戦い、中朝軍の正月攻勢と5月攻勢に参加した。アメリカ軍第10軍団による8月の夏季攻勢と9月の秋季攻勢に対して頑強に抵抗した。第10軍団は数キロ前進したが数千人の被害を出し、戦場となった983高地を血の稜線()、931高地を断腸の稜線()と呼んだ。しかし第5軍団もこの戦闘で消耗し、10月に中国人民志願軍第68軍と交代して部隊を再編成した。 1952年12月、西海岸指揮部副司令員。 朝鮮戦争休戦後は軍事科学委員長、軍事大学総長など閑職に追いやられ、1955年に英雄称号も党籍も剥奪で粛清の手が及ぶと、病気療養を名目に中国に逃亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「方虎山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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