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旅順虐殺事件(りょじゅんぎゃくさつじけん、英語:Port Arthur Massacre)は、日清戦争の旅順攻略の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に旅順市民も虐殺した事件〔「山地将軍より左の命令あり。・・・今よりは土民といえども我軍に妨害する者は不残殺すべしとの令あり」(『征清従軍日記』)、「当時市内に逃げ後れたる小商人及貧民等は敗残兵と混入して類害を被り非命の死を致したるもの一万五六百名の多きに至りたり」、「(海外メディアからの批判に対し)左記の事実を以推究せば二十一日に於て市街の人民を混一して殺戮したるは実に免れ難き実況なるをしるべし」(直前の二証言とも有賀長雄『日清戦役国際法論』)。これらの資料については一ノ瀬俊也『旅順と南京』や原田敬一『日清戦争』(吉川弘文館、2008)で取り上げている確度の高い資料である。他に「(死者の)過半数約六〇〇〇以上が戦闘と関係がない無辜の住民であることは絶対に動かしようがない事実である」(大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争』立風書房、1998,P444)、「日本軍は多数の市民を虐殺」(菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005、P91)など日本側の資料・研究書で指摘されている。なお上記の研究書は『史学雑誌』の回顧と展望でも注目すべき研究として取り上げられたことがあるレベルのものに限定している。〕。中国では「旅順大屠殺」と言う。 ==背景== 1894年(明治27年)より朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発したが、軍備の優位など諸要因によって日本軍が戦況を有利に進めた。黄海の海戦勝利の後、10月に入るといよいよ清朝の国内に攻め入り、11月には旅順を陥落させんとした。当時遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸の威海衛とならんで 北洋海軍(李鴻章の実質私兵)の基地となっており、それに加え清朝の海上輸送ににらみをきかすためには是非とも落とさねばならない要衝であった。 旅順攻略にあたったのは、大山巌率いる第二軍であった。11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、秋山好古少佐の騎兵第一大隊が清軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強いられた。この戦いは後々大きな影を落とすことになる。しかし11月21日の攻撃では旅順の大部分を占拠するに至った。東洋のジブラルタルといわれた旅順の攻略は、大変な困難を極めるだろうという欧米側の予想を裏切る迅速さであった。ただ不平等条約改正を悲願とする日本は戦争冒頭よりこの戦争を「文明戦争」と呼び、清側の態度に関わりなく戦時国際法を絶対遵守することを国内外に宣伝してきたが、旅順占領後、自らこの言に背く事態を引き起こすこととなった。それがこの事件である。 なお、この第二軍には幾人か著名人も参加していた。たとえば軍医として派遣された森鴎外。そして事件直後には記者として国木田独歩が旅順の土を踏み、生々しい爪痕を目撃している。西洋画家として著名な浅井忠も新聞画家(新聞の挿絵を描く)として参加している。後に袁世凱の顧問となる有賀長雄は国際法顧問として参加し、戦後この事件や日清戦争そのものの正当化活動に深く関与している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「旅順虐殺事件」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Port Arthur massacre (China) 」があります。 スポンサード リンク
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