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旗巻峠の戦い(はたまきとうげのたたかい)は、戊辰戦争時、仙台藩と相馬中村藩の境にある要所を巡って行われた新政府軍と旧幕府軍との一連の戦いの総称である。戦いの結果、旗巻峠と駒ヶ嶺は新政府の制圧するところとなり、仙台藩は戊辰戦争において初めて領内に新政府軍の侵入を許した。仙台藩は数度に渡り奪還のための兵を送るが、いずれも失敗に終わって藩論は降伏へと傾くことになる。 == 背景 == === 新政府 === 画像:Sijyoutakauta.jpg| 仙台追討総督四条隆謌 画像:Kawadasakuma.png| 参謀河田景与 慶応4年(1868年)8月7日、仙台追討総督四条隆謌率いる新政府軍は平潟上陸から相馬中村藩の降伏に至るまでの磐城の戦いを終え、中村藩の中村城に入城した〔大山(1988: 543)〕。中村城に入った兵力は3,000名ほどであり、仙台藩を単身で攻めるには兵力が不足していた。 当時、新政府軍は北越戦争に大兵力を投じており、新政府軍は援軍として新編成の徴兵隊を編成していたものの未だ最初の一隊を編成し終えた所であった。西の二本松城には同規模の兵力を持つ白河口方面軍がいたが、8月7日時点の白河口方面軍は身動きがとれない状況にあった。それは東京の新政府大都督府と現地指揮官との意見の対立が原因であり、新政府大都督府の大村益次郎は北上して四条の軍と共同して仙台藩を攻める戦略を主張、板垣退助・伊地知正治ら現地指揮官は単独での会津攻撃を提案してお互いに譲らない。大村が折れるまで、まだ若干の日数を要した。 こうして、手持ちの戦力でやりくりするしかない四条軍だったが、四条は参謀木梨精一郎、河田景与(佐久馬から改名)との協議の末、白河口方面軍を待たずに単独で仙台藩に攻め込むことを即日で決定。積極果敢な判断をした四条だが、この時点で四条の軍は北に突出し、すでに西の白河口方面軍と連携がとれない位置に進出していた。大山柏が著作中で指摘している〔大山(1988: 544)〕ように、一度大敗すれば、各個撃破されかねない危険性があった。また、徳川家家職の海軍副総裁榎本武揚の率いる榎本艦隊も蝦夷共和国建国に向けた動きを見せており、太平洋沿岸の制海権においても不安があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「旗巻峠の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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