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日下部基栄 : ミニ英和和英辞書
日下部基栄[くさかべ きえ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)
: [き, もとい]
 【名詞】 1. basis 
: [さかえ, はえ]
 【名詞】 1. glory 2. prosperity

日下部基栄 : ウィキペディア日本語版
日下部基栄[くさかべ きえ]


日下部 基栄(くさかべ きえ、1978年10月11日 - )は、日本の元柔道選手。元福岡県警察所属。現役時代は大外刈などのパワフルな技を得意とし、シドニー五輪柔道女子57キロ級)の銅メダルを獲得。
現在は福岡大学女子柔道部の監督を務める。身長160cm。
== 来歴 ==
福岡県福岡市出身。父親は機動隊に所属する警察官。子供の頃、ネフローゼ症候群幼稚園も殆ど行けず入退院を繰り返していた。小学校1年生の時に兄の通う東福岡柔道教室を見学し、そこで3歳年上の小さな女子が男子を引きずり回して圧倒するのに感動し、自身も柔道を始める。なお、この少女は後に世界選手権を6連覇する田村亮子であった。
日下部は柔道を始めて半年後には初めて出た大会でいきなり優勝〔。また柔道を始めてから、いつのまにか腎臓病が治ったという〔シリーズ 私の健康法 福岡市医師会 2005年10月〕。
道場主の稲田明からは、道場内の厳しい稽古は勿論の事、道場外でも「トイレでは握力を鍛えろ」「電車ではつり革に掴らず爪先で立て」という厳しい指導を受けた〔。生来より力の強かった日下部は小学4年生の時には団体戦でも男子に混じって試合に出ていたという。九州大会では当時既に将来を嘱望されていた井上康生と引き分けたほか〔井上は試合後に父親から正座させられ、「バカモンが!」と怒鳴られていたとの事。大人になってからも、井上から「お前の顔は見たくない」と冗談混じりに言われた。〕、内柴正人に勝利した事もあった〔。
また、小学6年生の時に先輩の田村が福岡国際大会(現・グランドスラム・東京)で優勝した時には、応援団長として観客席から観戦していた〔。
市立東住吉中学に進学すると、全国中学校大会1991年から93年まで3連覇を果たす〔1991年は52キロ級、1992年,93年は56キロ級での出場。〕。男女合わせても史上初であり、2007年現在唯一の記録となっている。
中学卒業に際し全中3連覇の日下部には遠く関東の高校からもオファーが来たが、日下部は福岡工業大学附属高校(現・福岡工業大学附属城東高校)へ進んで柔道部部長の園田義男に師事した〔
*谷亮子とは、高校でも先輩後輩の間柄にあたる。また柔道部ではないが、高校の同級生にお笑い芸人のなかやまきんに君がいた。〕。入学当初は思春期等も重なり、柔道への情熱を失っていって試合で負けがかさむ時期もあったが〔、カイロで開催される世界ジュニア選手権の国内予選で優勝し、ジュニアながら初の日本代表に。
大会では5位という結果であったが「心の底から五輪や世界選手権に出場したいと思った」と日下部〔。その後は国内で全国高校選手権(61kg級)を連覇し、2年後の1996年に出場したポルトの世界ジュニア選手権では見事王者に輝いたほか、シニア大会でも福岡国際大会で3位に食い込んだ。
高校卒業後は純真女子短期大学に進学。入学間もない4月の全日本選抜体重別選手権で3位に入り、6月の全日本学生体重別選手権で優勝。11月のアジア選手権では決勝で元世界チャンピオンの鄭成淑に敗れるも準優勝という成績を残し、着実に地力を付けていった。1999年に短大を卒業し、福岡県警へ入庁した。
順調なキャリアを重ねていたが、1999年5月、全日本選抜体重別選手権の試合中に左膝の前十字靭帯断裂の重傷を負う〔。立ち上がれず担架で畳を下りる事になり、シドニー五輪代表選考会への出場も絶望視された〔。しかし、途中手術で靱帯を糸で引っ張りボタンで止める処置を受け〔、リハビリを続けて五輪選考会に出場。1次選考となる半年後の全国女子体重別選手権(現・講道館杯)、2次選考となる翌2000年4月の全日本選抜体重別選手権ともに勝ち抜き代表候補に決定。女子57kg級は日本が唯一代表権を逃していた階級であったが、日下部は同年5月のアジア選手権も制して出場枠を獲得し、9月の五輪出場が決定した〔。
シドニー五輪本大会では金メダルイサベル・フェルナンデスに3回戦で敗れたものの、敗者復活戦は全て一本勝ちという成績で銅メダルを獲得。五輪後には一度引退を考えるが、「地元開催の福岡国際で金メダルを獲得したい」と現役を続行〔。同年12月および2002年福岡国際大会で念願の優勝をしたほか、2001年ミュンヘン世界選手権で3位、2001年,02年にフランス国際大会を連覇と好成績を残した。
2003年、再び左膝の靭帯を痛め長期離脱。前述の通りシドニー五輪選考会の前に仮処置を受けたが、「日本のトップを守りたい」という思いもあって五輪後も本格的な手術をしないまま試合に出ていたのが祟った〔結局、きちんと靭帯を繋いだのはアテネオリンピックをもって現役を引退した後となった。〕〔〔。翌2004年アテネ五輪選考会でも3位に終わるが、実績を考慮され代表候補に選ばれ、またもアジア選手権で本大会出場枠を勝ち取った〔日下部自身、長い柔道人生で一番の思い出は薄氷の五輪出場枠を2度連続で獲得した事を挙げている。〕〔。しかしその後の膝の状態は芳しくなく、アテネ五輪本大会では日本人女子柔道では唯一メダルを逃すという結果に終わった。
進退は膝の様子を見て決めるとし、五輪後に左膝を手術。しかし長年の無理が影響して損傷状態は想像以上に悪く、2005年1月17日に現役引退を表明した。3月をもって福岡県警も退職。引退に際し日下部は「悔いはない」としながらも、後に雑誌『近代柔道』のインタビューで「初めて世界で戦ったのが1994年のカイロ(世界ジュニア選手権)だったので、最後も2007年のカイロ(世界選手権)で終わりたかった」と本音を漏らしていた〔。
2005年10月に12歳年上の会社員と結婚。2007年1月7日、女児を出産した。現在は地元福岡でタレント・スポーツコメンテーターとして活動。
2013年4月には福岡大学の女子柔道部監督に就任した〔 日刊スポーツ 2013年4月6日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「日下部基栄」の詳細全文を読む




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