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朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。 == 生涯 == === 家督相続と前半生 === 天文2年(1533年)9月24日、越前国の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。生母は広徳院(光徳院)といわれ、若狭武田氏の一族の娘で武田元信か武田元光の娘とされる。 このとき、父の孝景は40歳であり、唯一の実子であったとされる(しかし出生については異説がある)〔『朝倉義景』吉川弘文館。48頁。〕。 幼名は長夜叉と称した。義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんど無い〔『朝倉義景』吉川弘文館。49頁。〕。 天文17年(1548年)3月、父の孝景が死去したため家督を相続して第11代当主となり、延景と名乗る〔。9月9日には京都に対して代替わりの挨拶を行なっている(『御湯殿上日記』)〔。 当初は若年のため、弘治元年(1555年)までは、一族の名将・朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐されていた。 天文21年(1552年)6月16日、室町幕府の第13代将軍・足利義輝(当時は義藤)より「義」の字を与えられ、義景と改名する。この頃、左衛門督に任官した〔『朝倉義景』吉川弘文館。50頁。〕。将軍の「義」の字を与えられて一等官である左衛門督の官途を与えられた事(それまでの朝倉当主は左衛門尉などの3等官)は歴代朝倉家当主の中では異例のことで、これは義景の父・孝景の時代に室町幕府の供衆・相伴衆に列して地位を高め、また義景が正室に管領であった細川晴元の娘を迎えたことにより幕府と大変親密な関係を構築し、また衰退する室町幕府にとっては朝倉家の守旧的大名の力をさらに必要として優遇したためという〔『朝倉義景』吉川弘文館。53頁・54頁。〕。庭籠の巣鷹を義輝に献上して交流を深めていたことも知られている〔宮永一美「戦国武将の養鷹と鷹書の伝授―越前朝倉氏を中心に―」(二木謙一編『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、2006年)〕。 弘治元年(1555年)に宗滴が死去したため、義景は自ら政務を執るようになる。この前後は特に記すような出来事も無く、朝倉家と越前は戦国時代において平穏を保っていたようである。 永禄2年(1559年)11月9日には、従四位下に叙位された〔『朝倉義景』吉川弘文館。225頁。〕。永禄6年(1563年)8月、若狭国の粟屋勝久を攻めた。この頃の若狭守護である武田義統は守護として家臣を統率する力をすでに失っており、粟屋勝久や逸見昌経らは丹波国の松永長頼と通じて謀反を起こしていた。このため朝倉軍は永禄6年以降、主に秋に粟屋氏攻撃のために若狭出兵を繰り返している(これは永禄11年(1568年)8月まで続いた)〔(『国吉城籠城記』)『朝倉義景』吉川弘文館。63頁・64頁。〕。永禄7年(1564年)9月1日、朝倉景鏡と朝倉景隆を大将とした朝倉軍が加賀に出兵。9月12日には義景も出陣して本折・小松を落としたのを皮切りとして、9月18日には御幸塚、9月19日には湊川に放火して大聖寺まで進出した後の9月25日に一乗谷に帰陣している〔『朝倉義景』吉川弘文館。67頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朝倉義景」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Asakura Yoshikage 」があります。 スポンサード リンク
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