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日光軌道線(にっこうきどうせん)は、栃木県日光市の日光駅前から馬返までを結んでいた、東武鉄道運営の路面電車である。愛称は「日光電車」〔日光電気軌道によって開業以来運営者が対外的に使用した愛称で、日光市民には「市内電車」「日光市内電車」と呼ばれていた。〕。1968年(昭和43年)に廃止された。 == 概要 == 当時の日光町が古河合名(現在の古河電気工業、以下古河電工と略す)と合弁で1908年(明治41年)に日光電気軌道を設立して1910年(明治43年)に開業した。日光東照宮、輪王寺、二荒山神社等の観光地への旅客輸送や古河精銅所からの貨物輸送を目的に建設された。開業時、電動客車3両、電動貨車2両、客車と貨車が併せて9両の計14両を所有していた。山道を行く珍しい路面電車で、沿線の標高は停車場前(のちの国鉄駅前)が533m、馬返が838mで、日本国内の路面電車では一番高かった。軌道は至る所が急勾配で、最急勾配は60‰(パーミル)〔ここでは勾配を表す単位。60‰の登り勾配は1,000m進むと60m上昇する。軌道建設規程第16条 本線路ノ勾配ハ1000分ノ40ヨリ急ナルコトヲ得ス但シ特殊ノ箇所ニ於テハ1000分ノ67迄ト為スコトヲ得 と定められており特認によるもの。〕、50‰以上も多数存在した〔東武博物館「東武博物館だより」No.108、2010年。〕。1932年(昭和7年)に傍系の日光登山鉄道によるケーブルカー(のちの東武日光鋼索鉄道線)が終点馬返から明智平まで延び、翌年から明智平では同社のロープウェイ(のちの明智平ロープウェイ)に接続して華厳滝、中禅寺湖への観光輸送も行った。 1928年(昭和3年)、日光へ進出した東武鉄道の傘下に入り、戦時統制下で日光地区の交通機関を統合する。古河精銅所の軍需輸送や通勤輸送は繁忙を極め著しく不足した輸送力を強化するために中古の電車や客車を導入し、さらに鉄道省(のちの日本国有鉄道)から電気機関車を借り入れて軌道改良の上で貨物列車を直通運転できる様になり飛躍的に輸送効率を向上させ、この年1944年(昭和19年)の貨物運輸実績は実に18万トンを超えている。1947年(昭和22年)親会社の東武鉄道に合併した。合併時、76両の引き継ぎ車両があったが中には創業当時の車両まであり、いずれも旧態依然かつ老朽化していた。車両のみならず、軌道・電路などの状態も軍需輸送のために整備されていたとはいえ戦中戦後の酷使が祟って深刻な疲弊ぶりで、東武鉄道では安全確保と観光輸送の回復をにらんでの設備投資を順次行った。1953年(昭和28年)、新車のボギー車が10両、翌年には大型の連接車が6編成就役する。旧型車を駆逐し面目を一新した。古河電工工場への通勤客や戦後の観光ブームで輸送旅客数もピークを記録、貨物輸送も増加して戦後の黄金期を迎える。 しかし、やがて自動車時代の到来で道路が整備され自動車の交通量が増加する。さらに第一・第二いろは坂の開通により自家用車・バスが中禅寺方面へ直通可能(軌道線経由の場合、馬返・明智平の2箇所で乗り換えが必要)になり、古河関連の貨物輸送がトラックに切り替えられ、旅客、貨物ともに輸送実績が激減し収支が悪化し、電車の存在意義が薄れる結果となった。日光市内で交通渋滞も発生し始めており、地元からの撤去要請を受けた東武鉄道は廃止を決定する。1968年(昭和43年)1月末日の廃止を予定したが労働組合との折衝に手間取り廃止時期を若干延期することを余儀なくされ〔「東武鉄道日光軌道線廃止」151頁。〕、1968年(昭和43年)2月24日限りで全線を営業廃止し、お別れの装飾を施した電車が最後の2日間を走って58年の歴史を閉じた。 東武鉄道はかつて伊香保軌道線という路面電車を運行していたが1956年(昭和31年)に廃止されており、日光軌道線廃止によって同社保有の軌道線は全廃となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東武日光軌道線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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