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伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。 一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで備中国岡田藩主となる。 == 平安時代末期から鎌倉時代初期 == 工藤氏の一族である工藤祐隆(すけたか、工藤家次(いえつぐ)とも)は、伊豆国の大見・宇佐見・伊東からなる久須見荘を所領としていた。 出家し法名を寂心、久須美入道(久須見氏)と号した祐隆は、早世した嫡男・祐家(すけいえ)の代わりに、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子を嫡子とし伊東荘を与えて伊東祐継(すけつぐ)と名乗らせた。一方、早世した祐家の子・祐親を次男として河津荘を譲り、河津氏を名乗らせた。 『曽我物語』によれば、祐親は祐継を「異姓他人の継娘の子」と呼び、真名本『曽我物語』では祐継は祐隆が継娘に産ませた子で、祐親の叔父であるとしている。 伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去し、9歳の嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。祐親は河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている。金石は元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻とした。その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として平重盛に仕える。 祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。祐親は娘・万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。所領の他に妻をも奪われた祐経は憤り、祐親親子の殺害を計画、安元2年(1176年)10月、祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊東氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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