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日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では、日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。 ==古代== === 先史時代 === 稲作は長らく朝鮮経由と言われてきたが、稲遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来し、さらに日本から朝鮮に伝わったという学説が、考古学的には主流となりつつある〔静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授やアメリカの多くのバイオ系研究機関の分析によると、日本及び朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種及び熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられ、その一部遺伝子を持つ種苗群の遺伝子を確認すると、中国東北部から朝鮮半島を原産とする改良種群には、当該遺伝子の存在が確認されないことが明確になっている。〕。しかし、日本への水稲伝来ルートに関しては様々な学説がある。池橋宏によれば、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達した〔池橋 宏『稲作渡来民 「日本人」成立の謎に迫る 』p62、講談社選書〕。池橋宏は、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」と述べている〔池橋 宏『稲作渡来民 「日本人」成立の謎に迫る 』p62、講談社選書〕。また、佐藤洋一郎によると風張遺跡(八戸)から発見された2800年前の米粒は「熱帯ジャポニカ(陸稲)」であり、「温帯ジャポニカ(水稲)は、弥生時代頃に水田耕作技術を持った人々が朝鮮半島から日本列島に持ってきた」と言う〔逆転の日本史編集部『日本のルーツがわかる本』p84、p88、佐藤洋一郎〕。 ただし、佐藤洋一郎は稲作が大きな人類集団の渡来を伴ったことには否定的であり、ルートに関しては池上曽根遺跡や唐古・鍵遺跡から出土した弥生米のDNA分析して朝鮮半島には存在しない中国固有の品種が混ざっている事から、朝鮮半島を経由しないルートがあった根拠の一つとしている。 君島和彦、鄭在貞らが共同して造った『日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史』によると、朝鮮半島では前7Cの麻田理遺跡などで水田遺跡が存在しており、縄文時代後半期に稲作とともに北九州に伝わった石包丁などの石器群・農耕具は、朝鮮半島南部で見つかる石器群・農耕具と類似しており、「これらの技術と道具も朝鮮半島から伝わったものであると考えられる」と書いた〔歴史教育研究会【編】『日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史』p23-p24〕。 また、放射性炭素年代測定による分析においても、日本での炭化米は紀元前4000年程度まで溯る事が確認されており、これらの証左をもって、東南アジアから南方伝来ルートが日本への稲作伝来ルートであったようである。以上のことから逆に日本から朝鮮半島へ伝わった説も有力視されている。(佐藤洋一郎『稲のきた道』裳華房/『DNAが語る稲作文明』日本放送出版協会)、(松尾孝嶺『栽培稲の種生態学的研究』)〕。そのため、各種歴史教科書の稲作の伝来経路も修正されつつある。 文字の記録がほとんどないため詳細は不明だが、現在の佐賀県から産出した黒曜石が朝鮮半島(プサン 東三洞 貝塚)からも出土しており、かなりの縄文・弥生人が暮らしていたと考えられる。黒曜石は土地によって成分が変わるため、成分の同じものは出土場所が同じである。日韓の間で、成分の同じ黒曜石が発見されるのは、先史時代の日韓交流を示す証拠であるとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日朝関係史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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