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日本の書道史(にほんのしょどうし)とは、有史以来、現在までの日本における書道の歴史である。この記事では時代ごとに、その背景・書風・筆跡・書人・教育など書に関連した事跡を記す。 == 概観 == 日本の書道は漢字の伝来に始まる。それ以前に日本独自の文字の文化はなかったとされている。神代文字で記した文献が存在したとの説が江戸時代から示されたが、現在の学界では認められていない。 日本に漢字が伝来したのは弥生時代に遡るが、その時代の日本ではまだ文字を本来の意味で使用することはなかった。日本で作られた銘文を有する最古の遺物は5世紀前半ごろのもので、日本人は早くから漢字と出会いながらも、その時期まで文字を必要としなかったのである。そして、その遺物にはすでに万葉仮名の用法が見られ、書体は隷書から楷書への過渡期のものが使われた。それらは朝鮮半島を経由した中国の文字文化が基本となっている〔東野治之 pp..190-203〕〔鈴木翠軒 p.90〕。 ; 写経と晋唐書風の流行 つづいて仏教が伝来し、日本の書道は急速に発展する。飛鳥時代の聖徳太子、奈良時代の聖武天皇によって写経が盛行し、国家事業として写経所が設けられて分業で制作されたのである。また遣隋使や遣唐使により、中国文化が直接日本に招来するようになった。特に唐代は中国書道の黄金時代で、王羲之書法が最も尊重されていたことから日本で晋唐の書風が流行した。 ; 和様の完成と墨跡の勃興に始まる書の二極分化 平安時代初期の嵯峨天皇は唐風を好み、入唐した空海・橘逸勢らとともに晋唐の書に範をとった。が、これら三筆は中国の模倣だけに止まらず、中国風を日本化しようとする気魄ある書を遺した。そして平安時代中期、唐の衰頽にともない遣唐使が廃止され、国風文化の確立によって「かな」が誕生した。さらに三跡によって漢字が和様化され、和様書の完成期を迎える。この和様書は鎌倉時代から分派し、さまざまな書流を形成した。 またこの時期に中国から禅僧が来朝し、日中両国の禅僧によって再び中国の書風が注入された。この禅僧による書は墨跡と呼ばれ、武士の趣向に合致して鎌倉時代の禅林の間に流行した。さらに室町時代に茶道が生まれて禅と結びつき、茶会の掛軸として墨跡が珍重されるようになり、江戸時代からは唐様として継承され発展した。一方、和様は尊円流が江戸幕府の公用書体として採用され庶民にも広まった。かくして日本の書は唐様と和様に二分されたのである。 ; 六朝書道の盛行と上代様の復興 明治時代に入り、この時代の実権者の多くが漢学の素養があったことから唐様の書風に傾いていった。そして清国の楊守敬が漢魏六朝の碑帖を携えて来日し、日本の書道界に大きな衝撃を与え、この影響により巌谷一六・松田雪柯・日下部鳴鶴らを中心に六朝書道が盛んになった。これにともない漢字は和様が衰頽し、唐様は六朝書によって革新されたが、かなは明治時代中期に伝来の文化遺産の復古が叫ばれ、多田親愛・大口周魚・小野鵞堂を中心に上代様が復興された。そして日下部鳴鶴と西川春洞を中心に今日の漢字書道界の基礎が造られ、かな書道界においては小野鵞堂が多くの門人を育成した。 ; 近代書壇史の始まりと現代書の出現 大正時代末期、当時のほとんどの書家を結集させた書道団体が誕生し、年1回、大展覧会を開催した。会名を「日本書道作振会」としたこの団体は豊道春海の尽力により結成し、ここに近代書壇史が始まった。そして離合集散の結果、「泰東書道院」・「東方書道会」・「大日本書道院」の安定した大規模な団体の結成に至る。「大日本書道院」は日下部鳴鶴門の比田井天来を中心とする団体で、この天来の門弟たちによって現代書が出現する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本の書道史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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