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日本の核武装論(にほんのかくぶそうろん)は、日本が核武装することの是非についての議論である。核武装論は、広義には核兵器を保有していない国家における安全保障政策上の核武装の是非や利得についての議論を指し、狭義には核武装賛成論を指す。核兵器保有国においては、既に保有する核兵器をどのように運用整備するかという核戦略が議論される。 == 日本の核武装を巡る検討と発言の経緯 == 1937年11月、雪博士として知られる物理学者の中谷宇吉郎が以下のように述べている〔岩波文庫、「中谷宇吉郎随筆集」第5刷、樋口敬二編、1989、p178-179、「原子爆弾雑話」内、初出 文藝春秋、1945年9月号〕。 日本において原爆が具体的に語られたのは1940年に仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長にウラン爆弾の研究を進言したのが始まりとの説もある。以後、陸軍は1941年に理化学研究所に原子爆弾の研究を委託(ニ号研究)、海軍は1942年に核物理応用研究委員会を設けて原爆の可能性を検討した。しかし、当時は人形峠(岡山県・鳥取県境)のウラン鉱脈の存在も知られておらず、ウラン鉱石の入手はもっぱらナチス・ドイツとの連絡潜水艦に頼る状況にあり、ウラン爆弾1個に必要な2トンのウラン鉱石を確保するのは絶望的であった。 1945年6月には陸軍が、7月には海軍が研究を打ち切り、日本は敗戦を待たずして原爆研究から撤退した。 岸信介総理大臣がアメリカ政府宛てに「防衛上、核武装の必要が迫られれば日本は核武装する」と非公式に伝達し、アメリカは大きな衝撃を受け、日米安全保障の強化に乗り出したといわれる。 1961年11月、池田勇人総理大臣は来日したディーン・ラスク国務長官に「閣内に核武装論者がいる」と述べた。 1964年12月、佐藤栄作総理大臣はエドウィン・O・ライシャワー駐日大使に対して、ウィルソン英首相の言葉を引用して「他人が核を持てば、自分も持つのは常識だ」と述べた。 政府は佐藤内閣時代の1960年代後半に、極秘に核保有の可能性を検討した。1967年夏、内閣調査室の外郭団体「財団法人・民主主義研究会」で永井陽之助、垣花秀武、前田寿、関野英夫、蝋山道雄により日本の核武装の可能性について検討が行われた。その結果は「日本の核政策に関する研究(その一)-独立核戦力創設の技術的・組織的・財政的可能性」と「日本の核政策に関する研究(その二)-独立核戦力の戦略的・外向的・政治的諸問題」という二冊の小冊子にまとめられた。同研究会は「日本が核武装することは、国際政治的に多大なマイナスであり、安全保障上の効果も著しく減退する」と結論付けた。この事実については1999年に蝋山がSAPIOの取材に対して詳細を語っている〔神田憲行「日本の核武装 45年前に「不可能」と結論付けた議論の要諦 」、NEWSポストセブン、 2012年12月2日、2013年2月11日閲覧。〕。 1967年12月11日、佐藤総理は衆議院予算委員会で次のように答弁した。「核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まないというこの核に対する三原則、その平和憲法のもと、この核に対する三原則のもと、そのもとにおいて日本の安全はどうしたらいいのか、これが私に課せられた責任でございます。」〔外務省 非核三原則 〕 NHKの2010年10月の報道によると、核拡散防止条約(NPT条約)調印後の1969年、日本の外務省高官は西ドイツ外務省の関係者(エゴン・バール)らを箱根に招いて、核保有の可能性を探る会合(当時、分析課長の岡崎久彦、国際資料室の鈴木孝、調査課長の村田良平と政策企画部長のエゴン・バール、参事官のペア・フィッシャーとクラウス・ブレヒ)を持った〔2010年10月3日放映のNHKスペシャル「核を求めた日本」。元外務事務次官の村田良平(2010年3月死去)の証言。〕。佐藤内閣は専門家の意見を集めた上で、内閣調査室(内閣情報調査室の前身)に極秘に核兵器の製造能力についての報告書を作成させた。同報告書は外交・内政上の障害を理由に「有効な核戦力を持つには多くの困難がある」と結論づけた。これらの背景には1964年に中国が核保有国となったことがある。この報道を受けて外務省は、省内で調査をおこない、調査結果を2010年11月29日に報告書として発表した。それによると、日本と西ドイツの外交当局者が1969年に「政策企画協議」を東京で開催した後に箱根で懇談した事実を確認し、「政策企画協議」自体は「自由な意見交換が目的で、政策の交渉や調整の場ではない」としたものの、西ドイツ側関係者の証言などに基づき、日本の核保有の可能性に関連する発言が「何らかの形でなされていた可能性を完全に排除できない」と結論づけている〔日本の核保有、外務省幹部が69年に言及か 西独と懇談 朝日新聞 2010年11月30日〕。 1970年、中曽根康弘防衛庁長官は自著において「現実の必要性を離れた試論」として核武装について「日本の能力を試算」し「当時の金で2,000億円、5年以内で核武装できるが、実験場を確保できないために現実には不可能」との結論に達したことを明かした〔「自省録-歴史法廷の被告として-」〕。1970年当時の防衛費は4,800億円で一般会計の7パーセントを占めた。現在の貨幣価値に直すなら、消費者物価指数で言えば約3倍の6,000億円、防衛費の伸びで言えば10倍の2兆円といった金額になる。弾頭1発1億円とも述べており、これは当時の主力戦闘機F-104の価格、5億円の1/5であった。 1971年、中曽根防衛庁長官は衆議院内閣委員会で次のように述べた。「大体いま世界戦略的に、また世界歴史的に見ますと、核武装というのは第二次世界大戦の戦勝国の業になってきている。ああいうものをつくってしまいましたからなくすわけにいかぬ、相手が持っている以上は少し優越したものを持っていないと不安である、そういう世界に入り込んでいって、やむを得ず苦悶してSALTをやるというような形になってきておる。それで、私は戦勝国の業であろうと思っております。戦敗国である日本がそんな業にのこのこ入っていく必要はない、そんな考えを私は持っているわけです。」 1971年、ニクソン・ショックを背景に石原慎太郎参議院議員が次のように発言した。「(核兵器が)無けりゃ、日本の外交はいよいよ貧弱なものになってね。発言権はなくなる」「だから、一発だけ持ってたっていい。日本人が何するか分からんという不安感があれば、世界は日本の言い分を聞くと思いますよ」、この発言は1971年7月19日付の朝日新聞に掲載された〔 〕。 1972年、中曽根康弘科学技術庁長官は衆議院科学技術振興対策特別委員会で次のように述べた。「私は非核武装論者でありまして、核武装をしなければいかぬなんということは一回もありません。」 1975年、日本の科学技術庁(当時)の原子力担当課長が在京の英国大使館員に「日本は3か月以内に核兵器の製造が可能」と語った〔2005年12月28日に公開されたイギリス政府の機密公文書〕。この情報を基に一時イギリス政府は大騒ぎになった。 1978年3月11日、福田赳夫内閣総理大臣は参議院予算委員会で次のように述べた。「たとえば万一核不拡散条約、これを日本が脱退をするということになった場合には、条約上の遵守義務というものはありませんから、先ほど申し上げましたような間接的意味における憲法に由来する九十八条の問題というものは消えちゃうんです。第九条の問題だけが残るということなんです。憲法全体の思想といたしましては、私は、第九条だと思うのです。第九条によって、わが国は専守防衛的意味における核兵器はこれを持てる。ただ、別の法理によりまして、また別の政策によりまして、そういうふうになっておらぬというだけのことである。」 以後の日本政府は憲法98条2項「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」に基づきNPT条約を履行するため、非核三原則を「一貫して堅持する」と繰り返し明言している。 同日、真田秀夫内閣法制局長官は参議院予算委員会で次のように述べた。「国会におけるその非核三原則を堅持しろというような御決議があって、それでその核は持たないという選択をしなさいという御決議があるわけでございますから、それで政府はその政策の選択として非核三原則を堅持しておる、そのことと法律の解釈というのは、それは政策とは別なんですよ、それは。」 1979年のソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけとして冷戦が再び激化すると、ソ連からの核攻撃の脅威を回避するためには日本も核武装し抑止力を持つべきだという主張がおこなわれた〔代表的なものとして清水幾太郎の『日本よ国家たれ――核の選択』(文藝春秋, 1980年)がある(ただし、清水の「転向」は偽装であり、共産主義を晩年まで捨てなかったことに注意)。〕。一方、日本が冷戦期に核武装しなかったことでソ連が日本に対して軍事的行動に出られなかったという意見も存在する。ただし、日本は米の核により守られていたのでこの見方が成り立つとは考えにくい〔ただし、西ドイツが米軍供与の戦術核200発を戦時に運用する計画を立てていてもソビエトが欧州正面での戦争の可能性を否定することはなかった以上、日本の核武装の有無が軍事的影響を与えたという主張の妥当性は低く、ソ連が欧州戦争の可能性を否定しなかった事と実際の抑止力との評価の関連性が不明である。〕。 NPT条約の締結以前、非核三原則以前には日本政府は「防衛用核兵器は憲法上保有しうる」という見解で核武装の完全な否定はしていない。 当時、核弾頭の運用が可能な兵器としては航空自衛隊のナイキJ、海上自衛隊の対潜爆雷、アスロック、陸上自衛隊の155ミリ榴弾砲、核地雷が考えられた。いずれも精密誘導兵器の発達によって必要性がなくなった。 1991年、宮澤喜一は、総理就任前に「…日本にとって核武装は技術的に可能であり、財政的にもそれほど難問ではない」と述べた〔『中央公論』9月号で評論家の田原総一朗との対談〕。 2001年、内閣府高官(氏名不詳)が、雑誌インタビューに対して「3年で核武装可能」と回答した。 2002年4月6日、小沢一郎自由党党首は福岡での講演で、以前に中国共産党情報部の人物に語ったこととして次のように述べた。「あまりいい気になると日本人はヒステリーを起こす。核弾頭をつくるのは簡単なんだ。原発でプルトニウムは何千発分もある。本気になれば軍備では負けない。そうなったらどうするんだ。」 同年5月13日、安倍晋三官房副長官は早稲田大学の講演において次のように述べた。「自衛のための必要最小限度を超えない限り、核兵器であると、通常兵器であるとを問わず、これを保有することは、憲法の禁ずるところではない」「核兵器は用いることができる、できないという解釈は憲法の解釈としては適当ではない。」 同月31日、福田康夫内閣官房長官は次のように述べた。「非核三原則は憲法に近いもの。しかし、今は憲法改正の話も出てくるようになったから、何か起こったら国際情勢や国民が『(核兵器を)持つべきだ』ということになるかもしれない」「法理論的には持てる。持っていけないとの理屈にはならない」(記者団とのオフレコでの発言であったため発言者は「政府首脳」とぼかされていたが6月4日に自身であることを認める。) 福田首相の発言に関連して石原慎太郎は同年6月18日、都議会で次のように答弁した。「核の問題にしても、これからどういう変化が社会にもたらされて、それが政治ケースとなって、国民のその問題に対するとらえ方もおのずと変わってき得るということを福田君はいったことで、ああいう障害に阻まれたと認識しております。そういう点で、過去にあった事例というものを踏まえながら、現在の時点で正確に主張してもらいたいということで、私は激励しました」(石原はこの時、『諸君!』1970年10月号に載せた自分の論文「非核の神話は消えた」の全文コピーを福田に送っている)。 2003年に発表されたアメリカの国防白書は、未来予測の中で2050年までに日本が核武装すると述べた。 2004年、中曽根康弘はインタビューに答えて「(核武装について)これまでも一貫して否定してきていますし、今でも変わりません」と述べた。中曽根は「日米安保の続く限りにおいて」という条件つきでの一貫した非核武装論者である。 2005年2月25日、大前研一は韓国マスコミの「北朝鮮の核保有が最終確認された場合、日本も核武装に動くのか」という質問に対して次のように答えた。「その可能性は大きい。日本はその気になれば90日以内に核爆弾を製造し、ミサイルに搭載できる技術的能力を持っている。われわれはすでに大陸間弾道弾(ICBM)水準のミサイル(ロケット)を保有しており、50トン以上のプルトニウムを備蓄している。核爆弾2,000基を製造できる分量だ。日本はすでに30〜40年前、原爆製造に必要なあらゆる実験を終えた。日本が核武装をしないのは国民情緒のためだ。9割の日本人が核兵器の開発に反対している。広島と長崎の悪夢のためだ。しかしわれわれが北朝鮮核兵器の実質的脅威を受ける状況になれば、世論は急変するはずだ。」 同年、民社党の後身である民社協会系の新憲法組織「創憲会議」の「「創憲」を考えるための提言書」(玉置一弥サイト「「創憲」を考えるための提言書を掲載しました 」参照)が明らかにされた。公式に核武装を視野に入れ、核兵器に加え、生物・化学兵器の所持をも選択肢に入れるよう提言した。国会議員を擁する政党・政治団体で、核武装の検討を公式見解にしている党派はここだけである。ただし、同年10月28日に発表された創憲会議の新憲法草案では、核武装検討の明言はされていない(〔「創憲会議 新憲法草案 」〕)。 2006年10月10日、安倍晋三内閣総理大臣は衆議院予算委員会で次のように述べた。「我が国の核保有という選択肢は全く持たない。非核三原則は一切変更がないということをはっきり申し上げたい。」 同月15日、中川昭一自由民主党政務調査会会長はテレビ朝日「サンデープロジェクト」で次のように述べた。「欧米の核保有と違って、どうみても頭の回路が理解できない国が持ったと発表したことに対し、どうしても撲滅しないといけないのだから、その選択肢として核という……」 同月18・19日、麻生太郎外務大臣は衆議院テロ対策特別委員会にて次のように述べた。「隣の国が持つとなった時に、一つの考え方としていろいろな議論をしておくことは大事だ」「非核三原則を政府として堅持する立場に変わりはないが、日本は言論統制された国ではない。言論の自由を封殺するということに与しない(=核武装の論議容認)という以上に明確な答えはない。」 同月20日、中川昭一は自民党静岡県連合会の集会で次のように述べた。「攻められそうになった時にどう防ぐか。万が一のことが起きた時にどうなるかを考えるのは、政治家として当然のことだ。」この発言は日本のみならず、海外にまで議論が及ぶこととなり与野党からこの核武装とも取れかねない発言の撤回を求める意見が多数出ることとなり、この発言の後に安倍晋三総理大臣や塩崎恭久官房長官が非核三原則は厳守すると念を押す発言をし、ジョージ・W・ブッシュアメリカ大統領もこの発言に対し「中国が懸念する」と述べた。 これら中川昭一らの発言を受けて安倍晋三は次のように述べた。「政府や党の機関としては議論しない。それ以外の議論は自由だから言論封鎖することはできない。」 同年12月24日、「日本が小型核弾頭を試作するまでには少なくとも3〜5年かかる」とする政府の内部文書が明らかになった。(2006年12月25日 産経新聞) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本の核武装論」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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