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日本住血吸虫症 : ミニ英和和英辞書
日本住血吸虫症[にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
日本 : [にっぽん, にほん]
 【名詞】 1. Japan 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [じゅう]
 【名詞】 1. dwelling 2. living 
: [けつ, ち]
 【名詞】 1. blood 2. consanguinity 
: [むし]
 【名詞】 1. insect 
: [しょう]
  1. (adj-na,n-suf) illness 

日本住血吸虫症 ( リダイレクト:地方病 (日本住血吸虫症) ) : ウィキペディア日本語版
地方病 (日本住血吸虫症)[ちほうびょう]

本項で解説する地方病(ちほうびょう)とは、日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)〔広辞苑などのように「日本住血吸虫病(にほんじゅうけつきゅうちゅうびょう)」とする場合もある。〕の山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず住民を苦しめた感染症である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。
日本住血吸虫症とは住血吸虫科に分類される寄生虫である日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する寄生虫病であり、ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する人獣共通感染症でもある〔国立感染症研究所 感染症情報センター 住血吸虫症状 2016年1月2日閲覧〕。日本住血吸虫はミヤイリガイ(宮入貝、別名カタヤマガイ)という淡水産巻貝を中間宿主とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生、寄生された宿主は皮膚炎を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が肝門脈内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で生殖産卵を行い、多数寄生して重症化すると肝硬変による黄疸腹水を発症し、最終的に死に至る。病原体である日本住血吸虫については日本住血吸虫を、住血吸虫症全般の病理については住血吸虫症を参照のこと。
病名および原虫に日本の国名が冠されているのは、疾患の原因となる病原体(日本住血吸虫)の生体が、世界で最初に日本国内(現:山梨県甲府市)で発見されたことによるものであって、日本固有の疾患というわけではない。日本住血吸虫症は中国フィリピンインドネシア〔アジアにおける日本住血吸虫症の分布は撲滅された日本を含め、中華人民共和国、フィリピン、インドネシアの4カ国(厳密には台湾でもかつて分布が見られたが、ブタ、イヌ等の感染は認められたものの、ヒトへの感染事例は未確認である。)であるが、このうちインドネシアでの流行地は小規模なものでスラウェシ島(旧称セレベス島)中部にあるLindoe湖西岸の3ヶ村(人口約1,500人)に有病地が確認されている。ただしスラウェシ島の大部分は未開発の熱帯雨林であり、未発見の日本住血吸虫症有病地が存在する可能性も指摘されている。飯島利彦 日本住血吸虫病の疫学 第1節分布 インドネシアにおける流行、台湾における流行 山梨地方病撲滅協力会編 (1981) pp.38-39〕の3カ国を中心に年間数千人から数万人規模の新規感染患者が発生しており、世界保健機関 (WHO)〔世界保健機構、日本住血吸虫症の現状「」〕〔世界保健機構、日本住血吸虫症「」〕などによって2016年現在もさまざまな対策が行われている〔 WHO Schistosomiasis WHO 2016年1月2日閲覧〕〔WHO Schistosomiasis Fact sheet N°115Updated May 2015 2016年1月2日閲覧〕〔 Uganda National Health Consumers' Organisation (UNHCO) ウガンダ国民健康消費者機構 2016年1月2日閲覧〕。日本国内では、1978年(昭和53年)に山梨県内で発生した新感染者の確認を最後に、それ以降の新たな感染者は発生しておらず、1996年(平成8年)の山梨県における終息宣言をもって日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている〔世界保健機構、慢性日本住血吸虫症と肝細胞癌:山梨県におけるフォローアップの10年「」2016年1月2日閲覧〕。日本は住血吸虫症を撲滅、制圧した世界唯一の国である〔小林 (1998) pp.227-230〕〔日本は日本住血吸虫症 (''Schistosomiasis japonica'') を撲滅した世界唯一の国である。林 (2000) 序文pp.1-3〕。
日本国内での日本住血吸虫症流行地は水系毎に大きく分けて次の6地域であった〔岡部浩洋「日本住血吸虫及び日本住血吸虫症の生物学及び疫学」 『日本における寄生虫学の研究年』 目黒寄生虫館編 (1961)、pp.58-80〕。
#山梨県甲府盆地底部一帯
#利根川下流域の茨城県千葉県〔旧北相馬郡高野村(現:守谷市)、利根川下流対岸の印旛郡氾濫原一部。岡部 (1961) p.63〕、および中川流域の埼玉県荒川流域の東京都のごく一部〔旧北葛飾郡彦成村(現:三郷市)、旧北豊島郡赤塚村および志村(現:板橋区)の非常に限られたごく一部。岡部 (1961) p.63〕。
#小櫃川下流域の千葉県木更津市袖ケ浦市のごく一部〔前述の岡部の文献には記載されていないが、千葉大学医学部の調査によって複数の住民の組織内から虫卵が検出されるなど、かつての流行の痕跡が見られているため記載する(千葉県小櫃川流域における日本住血吸虫症の実態調査について - 千葉大学医学部寄生虫学教室 新村宗敏 pp.1-2)。〕。
#富士川下流域東方の静岡県浮島沼(富士川水系に含まれる現:沼川)周辺の一部〔富士市沼津市にまたがる湿地帯の周辺。岡部 (1961) pp.63-64〕。
#芦田川支流、高屋川流域の広島県福山市神辺町片山地区、および隣接した岡山県井原市のごく一部〔片山地区と県境を接した岡山県旧小田郡大江村(現:井原市)西代地区、当地では西代病(にしだいびょう)と呼ばれていた。岡部 (1961) pp.61-62〕。
#筑後川中下流域福岡県久留米市周辺および佐賀県鳥栖市周辺の一部。
日本国内では以上の6地域にのみかつて存在した風土病であり〔山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.1〕〔小林 (1997) p.5、pp.9-17、pp.31-32〕〔gooヘルスケア 日本住血吸虫症 2012年1月22日閲覧〕、上記のうち、甲府盆地底部一帯、広島片山地区、筑後川中下流域の3地域が日本住血吸虫症の流行地として特に知られていた。中でも甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯〔流行末期の1977年の段階ですら、厚生省によって指定されていた甲府盆地の有病地面積は、日本国内の日本住血吸虫症有病地総面積の約6割に当たる11,764ヘクタールであった。泉 (1979) P.44〕(以下、有病地と記述する)であり、この病気の原因究明開始から原虫の発見、治療、予防、防圧、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。
当疾患の正式名称は日本住血吸虫症 (''Schistosomiasis japonica'')〔林 (2000) p.76〕、ICD-10 (B65.2)〔厚生労働省「疾病、傷害及び死因分類」 2014年4月6日閲覧〕であるが、山梨県では官民双方広く一般的に地方病と呼ばれている。原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要するなど、罹患者や地域住民をはじめ研究者や郷土医たちによる地方病との闘いの歴史は山梨県の近代医療の歴史でもある。
この項目では甲府盆地における地方病撲滅の経緯を記述する。筑後川流域での根絶までの経緯は筑後川#日本住血吸虫症の撲滅を参照。全体の時系列は#年表も参照のこと。
== 甲府盆地の奇病 ==

=== 水腫脹満 ===

この疾患がいつから山梨県で「地方病」〔日本国内の他の流行地でも日本住血吸虫症とは呼ばず、独自の呼び名で呼ばれていた。広島県片山地方では「片山病」、筑後川下流域の福岡県久留米市周辺では「マンプクリン」、筑後川対岸の佐賀県では単に「奇病」と呼ばれていた。ただし、病原が解明された後に、福岡、佐賀の2県では、住血吸虫の英名 ''Schistosoma'' を略した「ジストマ」と呼ばれるようになった。小林 (1998) pp.9-19、pp.31-32、p.144〕と呼ばれるようになったのかを明確に記したものはない。しかし明治20年代の初め頃には、甲府盆地の地元開業医の間で「地方病」と称し始めていた〔田中寛 「宮入慶之助と中間宿主カイ発見」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.13-21〕ことが各種資料文献などによって確認することができる〔小林 (1998) p.31〕。医学的に「日本住血吸虫症」と呼ばれるようになったのは、病原寄生虫が発見され、病気の原因が寄生虫によるものであると解明されてからのことである。しかし山梨県内では病原解明後も今日に至るまで、「地方病」という言葉は一般市民はもとより行政機関等においても使用され続け定着しており、一般的には風土病を指す普通名詞である「地方病」という言葉は、「日本住血吸虫症」を指す山梨県内地域限定の固有名詞と化している。
部が大きく膨らむ特徴的な症状から古くは、水腫脹満(すいしゅちょうまん)、はらっぱり、などと呼ばれていた「地方病」は、以下に示す史料文献中の記述により、少なくとも近世段階にはすでに甲府盆地で流行していたものと考えられている〔山梨県史通史編5-近現代1 (2005) p.522〕。
近世初頭に原本が成立した全五十九品(章)からなる兵書である甲陽軍鑑品第五十七の文中に、武田家臣小幡豊後守昌盛が重病のため武田勝頼のもとへ暇乞いに来る場面があり、この中に積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)と書かれた記述がある。積聚(しゃくじゅ)とは腹部の異常を指す東洋医学用語であり、脹満(ちょうまん)とは腹部だけが膨らんだ状態を意味している。積聚の脹満とはつまり、腹部の病気によって腹が膨らんだ状態を描写したものである。さらに、籠輿(かご)に乗って主君である勝頼の下へ出向いているのは、この時すでに昌盛が歩くことすらできなくなっていたからであると考えられ、これらの記述内容は典型的な地方病の疾患症状に当てはまる〔小林 (1998) pp.6-8〕。
これは、天目山の戦い直前の天正10年3月3日ユリウス暦では1582年3月26日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1582年4月5日〔【換暦】暦変換ツール 〕)、勝頼一行が新府城を捨て岩殿城へ向かう途中で立ち寄った、甲斐善光寺門前での出来事を記したものであり、小幡豊後守昌盛はこの3日後に亡くなっている。この『甲陽軍鑑』のくだりが地方病を記録した最古の文献であると考えられている〔〔山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.5-6〕〔NHK甲府放送局、末利光 「地方病の庶民史」 山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.178-180〕〔佐賀県保健環境部 「佐賀県の日本住血吸虫病 -安全宣言への歩み」1991年〕。
その後、江戸時代中期の元禄年間(1700年頃)に「水腫脹満」の薬と称した民間療法薬が作られていた伝承が残されており、明治期にはそれを由来とした通養散と呼ばれる薬が竜王村界隈(現:甲斐市竜王)で販売されていた〔〔。また、江戸時代後期の文化8年(1811年)には、甲府盆地南西部に位置する市川大門在住の医師、橋本伯寿〔コトバンク 橋本伯寿 〕によって著された医学書『翻訳断毒論』J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター 地方病関連資料3.「翻訳断毒論」にみられる水腫について-山梨県衛生公害研究所年報 1997年 〕において、「''甲斐の中郡''(なかごおり〔近代の中巨摩郡東部の呼称。現在の甲斐市、中央市、昭和町一帯〕。)''には水腫多く''」と当時の様子が記されている〔山梨県立博物館編 (2009) p.87〕。
地方病に罹患した患者の多くが初期症状として発熱下痢を発症するが、初期症状だけの軽症で治まるものもいた。しかし感染が重なり慢性になった重症の場合、時間の経過とともに手足が痩せ細り、皮膚は黄色く変色し、やがて腹水により腹部が大きく膨れ、介護なしでは動けなくなり死亡した〔山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.105-106〕。
今日の医学的見地に当てはめると、肝臓などの臓器に寄生虫(日本住血吸虫)の虫卵が蓄積されることによる肝不全から肝硬変を経て、罹患者の血管内部で次々に産卵される虫卵が静脈に詰まって塞栓を起こすことにより、逃げ場を失った血流が集中する門脈血圧が異常上昇する。その結果門脈圧亢進症が進行、それに伴い腹部静脈の怒張(腹水の原因)を起こし、最終的に食道静脈瘤の破裂といった致命的な事態に至る。これら種々の合併症が直接の死因である〔〔石崎、加茂、井内「日本住血吸虫病の症状」 山梨地方病撲滅協力会編 (1981) pp.100-198〕。また、肝硬変から肝臓がんへ進行するケースも多く、さらに肝臓など腹部の臓器だけでなく、血流に乗った虫卵がへ蓄積する場合もあり、片麻痺失語症けいれんなどの重篤な脳疾患を引き起こすこともあった〔林正高「フィリピンの日本住血吸虫症・脳症型、肝脾腫型の臨床と同症に対する挑戦」 山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.151-156〕〔有泉信「脳合併症(脳症型日本住血吸虫病)」 山梨地方病撲滅協力会編 (1981) pp.199-207〕〔林正高「急性および慢性日本住血吸虫症と脳機能障害との関係」 山梨地方病撲滅協力会編 (1981) pp.208-247〕。
甲斐国(現:山梨県)の人々は、腹水が溜まり太鼓腹になったら最後、回復せず確実に死ぬことを、幼い頃から見たり聞いたりしていた。また、発症するのは貧しい農民ばかりで、富裕層に罹患する者がほとんどなかった〔山梨県史通史編5-近現代1 (2005) pp.522-523〕ことから、多くの患者が医者に掛かることなく死亡したものと推察されている。地方病の感染メカニズムを知識として知ることのできる現代の視点から見れば、農民ばかりが罹患した理由も明らかである。しかし、近代医学知識のなかった時代の人々にとっては原因不明の奇病であり、小作農民生業病、甲府盆地に生まれた人間の宿命とまで言われていた。
やがて幕末の頃になると、甲府盆地の人々の間でこの奇病に因んだことわざが生まれた。
*水腫脹満 茶碗のかけら
::この病に罹ると、割れた茶碗同様二度と元の状態に戻らず、役に立たない廃人になり世を去る〔泉 (1979) pp.15-17〕、という意味である。
*夏細りに寒痩せ、たまに太れば脹満
::普段の暮らしは貧しく痩せ細っているが、太るのは脹満に罹った時だけ〔、という意味である。
また、発症者の多発する地区がある程度限定されていたことから、流行地へ嫁ぐの心情を嘆く俗謡のようなものが幕末文久年間の頃から歌われ始めた〔山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.5-6〕。
* 嫁にはいやよ野牛島(やごしま)は、能蔵池葭水(のうぞういけあしみず)飲むつらさよ()〔野島ではなく野島と書いて「やしま」と読む難読地名で、現在の南アルプス市(旧八田村中央部)の地名。能蔵池とは現在も同地に現存する小さな池で、赤牛を貸し主とする椀貸伝説が伝わる池としても知られる。当時この病の原因が飲料水によるものとの風説があった。〕
*〽 竜地(りゅうじ)、団子(だんご)へ嫁に行くなら、棺桶を背負って行け()〔現在の甲斐市の地名。甲斐市龍地。〕
*〽 中の割(なかのわり)に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶()〔現在の韮崎市旭町および大草町付近。〕
このような悲しい口碑民謡が、かつての甲府盆地の有病地に残されている〔〔林 (2000) p.70〕〔J-GLOBAL 科学技術総合リンクセンター 日本史における寄生虫症-過去、現在そして未来 京都府立医科大学 吉田幸雄〕。
寄生虫の存在すら知り得ない当時の人々にとって、この奇病の原因はもちろん、なぜ特定の地域にばかり発症者が多発するのか、全てが謎であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「地方病 (日本住血吸虫症)」の詳細全文を読む




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