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(n) General Council of Trade Unions of Japan =========================== ・ 日 : [にち, ひ] 1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day ・ 日本 : [にっぽん, にほん] 【名詞】 1. Japan ・ 日本労働組合総評議会 : [にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい] (n) General Council of Trade Unions of Japan ・ 本 : [ほん, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation ・ 労 : [ろう] 1. (n,vs) labor 2. labour 3. toil 4. trouble 5. striving 6. putting (someone) to work 7. thanking (someone for their efforts) 8. comforting ・ 労働 : [ろうどう] 1. (n,vs) manual labor 2. manual labour 3. toil 4. work ・ 労働組合 : [ろうどうくみあい] 【名詞】 1. labor union 2. labour union ・ 働 : [どう] 【名詞】 1. work 2. labor 3. labour ・ 組 : [くみ] 【名詞】 1. class 2. group 3. team 4. set ・ 組合 : [くみあい] 【名詞】 1. association 2. union ・ 合 : [ごう] 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) ・ 総 : [そう] 1. (n,pref) whole 2. all 3. general 4. gross ・ 総評 : [そうひょう] 1. (n,vs) (abbr) General Council of Trade Unions of Japan ・ 評 : [ひょう, こおり] 1. (n,n-suf) (abbr) criticism 2. commentary 3. a council ・ 評議 : [ひょうぎ] 1. (n,vs) conference 2. discussion ・ 評議会 : [ひょうぎかい] 【名詞】 1. council 2. board of trustees ・ 議会 : [ぎかい] 【名詞】 1. Diet 2. congress 3. parliament ・ 会 : [かい] 1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club
日本労働組合総評議会(にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい)は、かつて存在した日本における労働組合のナショナルセンター。略称、総評(そうひょう)。 == 来歴 == 日本最大の全国的労働組合中央組織だった。第二次世界大戦の日本敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の保護と育成の下に再出発した日本の労働運動は経済・社会情勢を背景に急進的かつ政治的色彩の濃いもので、日本共産党も大きな影響力を及ぼしていた。冷戦の激化・GHQの方針転換に伴い、産別会議や全労連などに集約されていたそのような労働運動は行き詰まりをみせていた。一方で労働組合主義や共産党の排除、国際自由労連(世界労連から分裂して結成)加盟などを指向する運動潮流の分岐と結集が進み、そのナショナルセンターとして1950年(昭和25年)7月11日、日本労働組合総評議会(総評)は結成された。初代議長には炭労出身の武藤武雄・事務局長には都市交出身の島上善五郎が選手され、総同盟、国労、日教組、都労連、海員組合、私鉄総連など主要なナショナルセンターと単産が参加した。総評結成にはGHQの強い意向が働いており、結成大会で日本共産党排除や国際自由労連への接近を内容とする大会宣言を採択し、産別会議・全労連とは一線を画する労働組合として出発した。 GHQの援助の下、反共的色彩の強いナショナルセンターとして出発した総評であったが、翌1951年3月の第二回大会で行動綱領として平和四原則を決定し、国際自由労連に加盟する議案を否決するなどして、早くも左傾・反米へと方向転換した。吉田内閣の国家公安保障法(後に破防法として成立)、集会デモ取締法、ゼネスト禁止法、労働三法改正の成立を図ったことに対しては、1951年6月に「労働法規改悪反対闘争委員会」(労闘)を設置し、国会審議中の1952年には政治ゼネストを4波にわたって行った(労闘スト)。加盟単産も日本炭鉱労働組合連合会(炭労)と日本電気産業労働組合(電産)を筆頭に戦闘的な争議を展開した。この変化を、当時のマスコミは“ニワトリからアヒルへ”と呼んだ。一説に、これは総評の変化を当時のGHQ労働組合担当者が、“チキン(臆病者)が役立たず(lame duck、レームダック)になった”と罵ったのを通訳が理解できず、「アヒルになった」と直訳したからという。1952年7月の第3回大会では右派の国際自由労連一括加盟案が否決され、左派社会党への支持を決定して左派路線を明確にした。人事においても電産委員長の藤田進が新たに選ばれ,高野実が事務局長に再選され民同左派の主導権が確立した。一方、右派は役員を出さず、総評内の左右の対立は深まっていった。 1952年12月、全繊同盟・海員組合・全映演・日放労の4単産は総評指導部の政治闘争を重視した指導を批判する「総評批判――民主的労働組合の立場に立って」の題する声明を発表し、右派系組合と執行部の確執が表面化した(4単産批判)。両者の対立は解消されることなく第4回大会を経た1953年7月から11月にかけて日放労を除く右派系の3単産は相次いで総評から脱退し、右派ナショナルセンターである総同盟(1951年6月再建)と1954年、新たな連絡協議体として全日本労働組合会議(全労)を結成した。一方で総評は3単産の脱退を機に階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を目標に据え、第2回大会以来の路線転換を完成させた。日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進めた。総評の持つ政治的影響力は絶大で、しばしば横紙破りな行動が物議をかもしたところから、「昔、陸軍。今、総評」などと揶揄された。この総評の左派路線形成には社会主義協会の影響があった。関係者の回想では、1950年代後半から1960年代にかけて、総評本部の専従者はほとんどが社会主義協会会員であったという。 1958年2月、産別会議は2つの単産が加盟していたのみだったが、その1つの主力単産である全日本金属労働組合(全金属)が総評の全国金属労働組合(全国金属)と統合して総評へ合流し、同時に産別会議も解散した。 1978年(昭和53年)にはOECD労働組合諮問委員会へ参加。 1983年(昭和58年)には49単産、451万人、全組織労働者の36%が総評傘下にあり、その約7割は官公労働者だった。毎年、中立労連とともに春闘共闘会議を組織し、春闘を賃金決定機構として定着させた。 1987年に発足した全日本民間労働組合連合会(全民労連。後の日本労働組合総連合会(連合))に合流するため、1989年11月に解散した。 総評の政治活動を継承する組織としては、1989年9月に総評センターが作られ、さらに1992年10月には社会党と連帯する労組会議に移行。そのようにして、連合とは別の形態で社会党(のちに社民党)を支持していたが、民主党の結成後は軸足を民主党に移す動きが強まり、1997年7月に民主・リベラル労組会議に移行。1999年5月には、連合政治センターの結成に伴い、民主・リベラル労組会議も解散し、独自の政治活動に一応の終止符を打った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本労働組合総評議会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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