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日独関係(にちどくかんけい、)では、日本国とドイツ連邦共和国の関係について述べる。17世紀以降、紆余曲折を経て現在のような関係が築かれた。 == 日独関係史 == === 江戸時代まで === 江戸時代の日本は、江戸幕府が鎖国政策を行ってオランダ以外の欧米諸国とはあらゆる関係の樹立を拒絶した上、同時期のドイツでは中小国家の分立が続き〔徳川家光の治世で5度にわたり発令された鎖国令の時期(1633年-1639年)はドイツ(神聖ローマ帝国)で三十年戦争が行われており、ドイツ国家として統一した外交権の行使は不可能だった。〕、18世紀以降にドイツ北東部から強国化したプロイセンもイギリス・フランス・オランダのようなアジア・極東地域での植民地獲得運動を行っていなかったため、日本と現在のドイツに当たる地域〔当時はドイツ人が多く居住し、第二次大戦後にポーランドやソ連などに編入された地域を含む。〕との国交は長年開かれなかった。ただし、レムゴー出身のエンゲルベルト・ケンペルやヴュルツブルク出身のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(共に長崎出島のオランダ商館の医師)のような、個人としてのドイツ人の来日例は存在した(ただし、幕府にはオランダ人とされた)〔オランダ東インド会社の従業員には外国人も多数いた。来日した最初のドイツ人はミヒャエル・ホーエンライターで1614~20年に平戸商館に勤務、カール・ハルツイングは1633年~37年と1641年に勤務、日本人女性との間に子をなし、鎖国により子供は本国に帰っている。ハンス・ヴォルフガング・ブラウンは、1639年幕府の依頼を受けて臼砲を作成した。〕。 1858年に日米修好通商条約などが締結されて江戸幕府が開国政策へ転換すると、プロイセンも日本との国交樹立へと動き、1860年にフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵を派遣して、1861年1月24日に日普修好通商条約を成立させた〔オイレンブルクはプロイセンが主導するドイツ関税同盟の他、ハンザ同盟加盟都市・メクレンブルク=シュヴェリーン大公国・メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国の各全権も委任されていたが、江戸幕府はその領邦数の多さに困惑し、結局は日本とプロイセンの二国間条約となった。なお、日本側全権で外国奉行の堀利煕が交渉中に自刃し、後任の村垣範正が条約に調印した。〕〔日独交流150年サイト内「歴史」 文・スヴェン・サーラ 〕〔プロイセン海軍は設立されたばかりであり、日本への遠征自体が冒険であった。実際、4隻の艦隊の内、1隻は伊豆沖で沈没している〕〔交渉の通訳はハリスの通訳であったヘンリー・ヒュースケンが務めたが、調印の直前に暗殺されている。〕。これは他の欧米諸国との間との条約と同様、日本側に不利な不平等条約であった。1862年12月、プロイセン王国の初代駐日領事としてマックス・フォン・ブラントが着任した。1868年の戊辰戦争では、プロイセンは英仏蘭米伊と同様局外中立を宣言したが、新政府に抵抗する奥羽越列藩同盟を支援する姿勢を見せたとされる。しかし、戦局を左右する事態にはならず、戦争終結後も日本とプロイセンとの外交関係は維持された。明治維新後の1871年にドイツ帝国が成立するが、日普修好通商条約はそのまま引き継がれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日独関係」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Germany-Japan relations 」があります。 スポンサード リンク
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