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日本民芸館 : ミニ英和和英辞書
日本民芸館[にっぽん, にほん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
日本 : [にっぽん, にほん]
 【名詞】 1. Japan 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [たみ]
 【名詞】 1. nation 2. people 
民芸 : [みんげい]
 【名詞】 1. folk craft 2. folk art 
: [げい]
 【名詞】 1. art 2. accomplishment 3. performance 
: [やかた, かん, たて, たち]
 【名詞】 1. (1) mansion 2. small castle 3. (2) boat cabin

日本民芸館 ( リダイレクト:日本民藝館 ) : ウィキペディア日本語版
日本民藝館[にほんみんげいかん]

日本民藝館(にほんみんげいかん)〔館名の読みについて「にほん - 」「にっぽん - 」のいずれが正しいかは、公式サイトでは確認できないが、参考文献に掲げた『日本民藝館案内』(財団法人日本民藝館編・発行、2004)の2ページには英文で「Nihon Mingeikan」と表記されている。〕は、東京都目黒区駒場四丁目にある、伝統的工芸品を主に収蔵展示する美術館。宗教哲学者、美術研究家で民芸運動の主唱者でもあった柳宗悦(やなぎむねよし)〔「宗悦」の読みは「むねよし」が正しいが、「そうえつ」と音読み(有職読み)されることが多く、本人自身、英文の解説ではYanagi Soetsuとクレジットしていた。公式サイトの英文表記も Soetsu となっている。〕によって創設された。運営は、公益財団法人日本民芸館〔公益財団法人としての名称は「日本民芸館」で、「芸」は常用漢字体になっている(公式サイトの「財団概要」のページを参照)。〕。
== 柳宗悦と日本民藝館 ==
日本民藝館の創設者である柳宗悦は、日本各地の焼き物染織漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努め、「民芸運動」を創始したことでも知られている。〔柳が収集活動を行っていた時代の日本では「李朝」という用語が一般的で、柳自身ももっぱら「李朝」を用いているが、本項では「朝鮮王朝時代」の表記を用いる。〕
柳は1889年(明治22年)、東京に生まれた。青年期には武者小路実篤志賀直哉らとともに雑誌『白樺』の同人となり、オーギュスト・ロダンなどの西洋近代美術を日本へ紹介することに尽力した。また、イギリスの詩人で画家でもあるウィリアム・ブレークに傾倒し、ブレークに関するいくつかの著作もある。
柳は、1914年(大正3年)、朝鮮陶磁研究家の浅川伯教(あさかわのりたか)との出会いを通じて朝鮮の美術に関心をもつようになる。浅川は当時柳が所有していたロダンの彫刻を見せてもらうため、それまで面識のなかった柳を千葉県我孫子の自宅に訪問した。その際、浅川が土産に持参した朝鮮の白磁に魅せられた柳は、以後朝鮮半島、特に朝鮮王朝時代の美術に傾倒し、1916年(大正5年)以降、たびたび訪朝するようになる。朝鮮半島は1910年(明治43年)以来日本の支配下にあったが、柳は朝鮮独自の文化を無視しようとする日本政府の政策に反発し、当時の美術史家や収集家がほとんどかえりみなかった朝鮮王朝時代の白磁、民画、家具などの素朴な美を世に紹介することに努めた。1921年(大正10年)には東京・神田にて日本初の朝鮮美術展を開催、1924年(大正13年)には、浅川伯教と弟の浅川巧の援助を得て、ソウル景福宮内に「朝鮮民族美術館」を開設するに至った〔『芸術新潮』667号、pp.64 - 65〕。
柳は日本各地に個性的な仏像を残した江戸時代の遊行僧・木喰の再発見者としても知られ、1923年(大正12年)以来、木喰の事績を求めて佐渡をはじめ日本各地に調査旅行をしている。同じ1923年の関東大震災の大被害を契機として京都に居を移した柳は、実作者である濱田庄司河井寛次郎らの同士とともに、いわゆる「民芸運動(民藝運動)」を展開した。「民芸品売り場」「民芸調の家具」など、現代日本語の表現として定着している「民芸(民藝)」という言葉自体が、この時期柳らによって使い始められた造語である〔『芸術新潮』667号、p.65〕。柳、濱田、河井らは、当時の美術界ではほとんど無視されていた日本各地の日常雑器、日用品など、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美を見出し、これを世に広く紹介する活動に尽力した。運動の中心であった柳は、当時ほとんど研究が進んでおらず、美術品としての評価も定まっていなかった日本各地の民衆的工芸品の調査・収集のため、日本全国を精力的に旅した。柳は、こうして収集した工芸品を私有せず広く一般に公開したいと考えていた。当初は帝室博物館(現在の東京国立博物館)に収集品を寄贈しようと考えていたが、寄贈は博物館側から拒否された。京都に10年ほど住んだ後にふたたび東京へ居を移した柳は、実業家大原孫三郎(株式会社クラレ大原美術館大原社会問題研究所などの創設者)より経済面の援助を得て、1936年(昭和11年)、東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設した〔開館までの経緯については柳宗悦「日本民藝館」『日本民藝館案内』所収、pp.8 - 11による。〕。木造瓦葺き2階建ての蔵造りを思わせる日本民藝館本館は、第二次世界大戦にも焼け残り、戦後も民芸運動の拠点として地道に活動を継続してきた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「日本民藝館」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Japanese Folk Crafts Museum 」があります。




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