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日清ちびっこのどじまん : ミニ英和和英辞書
日清ちびっこのどじまん[にっしんちびっこのどじまん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 

日清ちびっこのどじまん : ウィキペディア日本語版
日清ちびっこのどじまん[にっしんちびっこのどじまん]

日清ちびっこのどじまん』(にっしんちびっこのどじまん)は、1965年7月27日から1969年9月29日までフジテレビ系列局で放送されていたフジテレビ製作の歌謡番組である。日清食品の一社提供。
== 概要 ==
日本各地の公会堂で一般の小学生や中学生を対象にしたのど自慢大会を行い、その模様を放送していた視聴者参加型番組
桂小金治が司会を務めていた頃には、番組はまず小金治とスタジオにいる子供たちが「5・4・3・2・1。スタート!!」とカウントダウンした後、ファンファーレを挟んで(小金治)「日清食品提供」→(ちびっこコーラス)「日清ちびっこのどじまん!!」とコールして主題歌に入っていた。
大村崑が司会の頃にはステージの幕が閉まったままで(「日本一大会」などの一部の回では開いたままの時もあり)、開演ブザーの音〔この時画面には「提供 日清食品株式会社」の提供テロップが出る。〕と場内アナウンサーの「只今より、日清ちびっこのどじまんを開始します。最後までごゆっくりお楽しみください」というアナウンスの後、ファンファーレと共に幕が開き、大村の「日清食品提供」(小金治のコールよりは甲高かった)をした後、カメラが会場の方へとパンした。そして「日清ちびっこのどじまん!!」という掛け声とともにスタートしていた。坂本九がオープニングテーマを歌唱していた時期があった。また、コマーシャルの前には「喉自慢の前には皆さんおなじみの味自慢。コマーシャルをどうぞ…」と振っていた。
出場者数は1回につき7人で、点数表示はピアノの鍵盤に見立てたボードに25点満点で表示するという形で行われていた。全出場者が歌い終えた後、審査員たちによってチャンピオンが選ばれた。通常は1人の出場者がチャンピオンに選ばれていたが、稀に複数になることもあった。そして、チャンピオンが7人出揃うと「チャンピオン大会」を開催し、その中からグランドチャンピオンを選出していた。
さらには年に1回(8月頃)、7人のグランドチャンピオンを集めて「日本一大会」〔第1回日本一大会が行われた1966年夏の放送では冒頭のスピーチで大村がグラウンドチャンピオンの上という意味で、「ウルトラ・スーパー・デラックスチャンピオンがここに決定するわけです」と説明していた〕を開催し、その中から日本一を決めていた(他に2人の準日本一も輩出)。この日本一大会はいわゆる得点制ではなく、特別ゲストを含めた審査員の合議制〔先述・第1回大会では「全員が満点に近い方ばかりですので、採点審査は行いません。後ほど審査員のほうから発表していただきます」とあった。〕によって入賞者を決めた。
そして「準日本一」には「準日本一の王冠」、「日本一」には「日本一の王冠」とガウン・杓がそれぞれ贈られ、その後に観客やマスコット「ちびっこ」の「おめでとう!!」の声とファンファーレと共に、ステージ上に吊り下げたくす玉が割れ、大量の紙吹雪・紙テープ・風船が舞って祝福した。
さらに賞品として、「日本一」にはヤマハ(当時の社名は日本楽器)→河合楽器協賛の豪華ピアノ、「準日本一」にはシャープ(同早川電気)協賛のカラーテレビ(第1回については、エレクトーン(日本一)・オルガン(準日本一)か、テレビのどちらかを選べたが、優勝者がエレクトーン、準優勝2名はいずれもテレビを選んで獲得した)、そしてスポンサーの日清食品から即席麺(日清焼そば出前一丁)が、「日本一」には1年分〔加えて、その受賞者が通う学校にも同じ即席麺が贈られた。受賞の際にはちびっこが「○○さん、日本一おめでとう。…応援してくれたお礼だから、みんな仲良く食べてね…」とコメントしていた。〕、「準日本一」には半年分が、その他の出場者には3か月分がそれぞれ贈られた〔他にも副賞として、「百科事典一式」(第1回)や「『日本万国博覧会』の入場券」(第4回)などが、全員に贈られたほか、第3回日本一になった少女には、アメリカ合衆国で放送された『アメリカ版ちびっこのどじまん』なる番組に招待ゲストとして出演する権利が与えられた。この時は日本一受賞者とは別に、一般の視聴者の子供にも公募で招待する権利があった〕。番組が終了するまでの間に4人の日本一(女子3人、男子1人)が誕生した。
番組中期以降は「とびいり」のコーナーを設け、会場から1人の飛び入り参加者を募って4番手の出場者として参加させるようになったが、飛び入り参加者に付けられる点数は他の出場者たちに比べると低かった。また、出場者が歌っている最中に「うた」と「たいど」のインジケーターが表示されるようになり、審査の評価が分かりやすくなった。ただし、この演出は大会の回には無かった。
出場者たちによる歌唱が終わって審査の結果発表までの間には、番組独自のちびっこソングの紹介を行っていた。これらの歌が家庭や学校、文部省(現・文部科学省)などから評価を得るようになり、それらを収録したソノシートケイブンシャ)や、『あつまれ!ちびっこ』というタイトルのLPレコード(キングレコード、第1集 - 第3集)が発売された。このオリジナルのちびっこソングを番組で歌うと、審査上でも有利な扱いになった。
制作はフジテレビ(テロップによっては「フジテレビジョン」のロゴ表記もあった)。ただし、高槻市民会館(当時、日清食品の工場の近くとして紹介された)で収録された第4回日本一大会では、関西テレビとフジテレビの共同製作となった(この時のクレジットは関西テレビが上位で、ロゴではなくスタッフロールと同じ明朝体で表記)。
ほとんどの期間においてはモノクロ放送だったが、1969年5月17日放送分でカラー放送へと切り替わった。また、当時は2インチVTRを使用していたことから、この番組の記録映像はフジテレビが保有する中では1本しか現存しない。これは、司会の大村が第3回日本一大会(於、東京厚生年金会館)を録画したものだったと判明している。
番組最高視聴率は、1966年8月26日放送分の39.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)〔引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争 - そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、223頁。ISBN 4062122227〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「日清ちびっこのどじまん」の詳細全文を読む




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