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日産・オースチン : ミニ英和和英辞書
日産・オースチン[にっさん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
日産 : [にっさん]
 【名詞】 1. daily output 
: [うぶ]
  1. (adj-no) innocent 2. naive 3. unsophisticated 4. inexperienced 5. green 6. wet behind the ears
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

日産・オースチン ( リダイレクト:オースチン (自動車)#日産でのライセンス生産 ) : ウィキペディア日本語版
オースチン (自動車)[ちょうおん]

オースチン(''The Austin Motor Company'' )はイギリス自動車メーカー。傘下企業となったのちも自動車ブランドとして1987年まで使用された。現在、中華人民共和国の有力メーカー、南京汽車がその商標権を保持している。
==歴史==

=== ハーバート・オースチン時代(1905年-1941年) ===

ハーバート・オースチン(1866–1941)(のちハーバート卿)はウーズレー・ツール&モーター・カー・カンパニーの工場長で、ウーズレー社で1896年には自動車を製作していた。1905年にオースチン・モーター・カンパニー(')をロングブリッジに設立し、のちウスターシャーに移る。(ロングブリッジは1911年バーミンガムとなっている。) 最初の車は保守的な排気量5リッター直列4気筒チェーン駆動モデルで、5年間で約200台を生産した。第一次世界大戦英国政府調達を受け、大砲から飛行機まであらゆるものを製造し、2500人だった従業員は2万2000人へと増えた。これによりオースチンは大変な成長を遂げた。
戦後、ハーバート・オースチンは3620cc、出力20hpのエンジンを中心としたワンモデル・ポリシーを掲げる。一つのエンジンで乗用車商用車、そしてトラクターまでをも製作しようとした。しかし、膨れ上がった工場規模を満たすだけの需要は起きず、1921年管財人の手に委ねられる。しかし、そこで金銭面を整理したのち会社は再び開花することになる。1922年、1661ccのオースチン・12(トゥエルブ)、続いてオースチン・ 7(セブン)小型車市場に投入された。
「7(セブン)」は、低価格の小型で簡素な車で、かなり早い時代に大衆車市場を狙ったモデルと言える。この「7」は、ドイツBMWの最初の自動車デキシー(Dixi)として、そして米国のバンタム(Bantam)、フランスのローザンギャール(Rosengart)がライセンス生産を行ったモデルでもある。日本ダット自動車が製作したダットソンは、ライセンスを受けていなかったが、「7」の車両デザインを使用し、非常に似た車両となっている〔:en:Austin 7〕。日産自動車の社史では触れられていないが、オースチンの社史では日産との関係があることが触れられている。〔1932年型ダットソン・クーペ
1929年から1934年までは米国子会社アメリカン・オースチン・カー・カンパニー(''American Austin Car Company'')として活動した。この会社は1937年から1941年にはアメリカン・バンタム(')として再興している。
オースチン 7(セブン)により、最悪の恐慌時を切り抜け、1930年まで利益を確保し続けた。数多くのシリーズを生産し、順次オールスチールボディ、ガーリング製ブレーキ、シンクロメッシュ付きトランスミッションに切り替えられていった。エンジンだけはサイドバルブのままだった。1938年には、宿敵のモーリスからレナード・ロード(レナード:1896–1967)を役員に迎え入れる。1941年にハーバート・オースチンが亡くなるとロードは会長職に付く。)をロングブリッジに設立し、のちウスターシャーに移る。(ロングブリッジは1911年バーミンガムとなっている。) 最初の車は保守的な排気量5リッター直列4気筒チェーン駆動モデルで、5年間で約200台を生産した。第一次世界大戦英国政府調達を受け、大砲から飛行機まであらゆるものを製造し、2500人だった従業員は2万2000人へと増えた。これによりオースチンは大変な成長を遂げた。
戦後、ハーバート・オースチンは3620cc、出力20hpのエンジンを中心としたワンモデル・ポリシーを掲げる。一つのエンジンで乗用車商用車、そしてトラクターまでをも製作しようとした。しかし、膨れ上がった工場規模を満たすだけの需要は起きず、1921年管財人の手に委ねられる。しかし、そこで金銭面を整理したのち会社は再び開花することになる。1922年、1661ccのオースチン・12(トゥエルブ)、続いてオースチン・ 7(セブン)小型車市場に投入された。
「7(セブン)」は、低価格の小型で簡素な車で、かなり早い時代に大衆車市場を狙ったモデルと言える。この「7」は、ドイツBMWの最初の自動車デキシー(Dixi)として、そして米国のバンタム(Bantam)、フランスのローザンギャール(Rosengart)がライセンス生産を行ったモデルでもある。日本ダット自動車が製作したダットソンは、ライセンスを受けていなかったが、「7」の車両デザインを使用し、非常に似た車両となっている〔:en:Austin 7〕。日産自動車の社史では触れられていないが、オースチンの社史では日産との関係があることが触れられている。〔1932年型ダットソン・クーペ
1929年から1934年までは米国子会社アメリカン・オースチン・カー・カンパニー(''American Austin Car Company'')として活動した。この会社は1937年から1941年にはアメリカン・バンタム(')として再興している。
オースチン 7(セブン)により、最悪の恐慌時を切り抜け、1930年まで利益を確保し続けた。数多くのシリーズを生産し、順次オールスチールボディ、ガーリング製ブレーキ、シンクロメッシュ付きトランスミッションに切り替えられていった。エンジンだけはサイドバルブのままだった。1938年には、宿敵のモーリスからレナード・ロード(レナード:1896–1967)を役員に迎え入れる。1941年にハーバート・オースチンが亡くなるとロードは会長職に付く。)として再興している。
オースチン 7(セブン)により、最悪の恐慌時を切り抜け、1930年まで利益を確保し続けた。数多くのシリーズを生産し、順次オールスチールボディ、ガーリング製ブレーキ、シンクロメッシュ付きトランスミッションに切り替えられていった。エンジンだけはサイドバルブのままだった。1938年には、宿敵のモーリスからレナード・ロード(レナード:1896–1967)を役員に迎え入れる。1941年にハーバート・オースチンが亡くなるとロードは会長職に付く。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オースチン (自動車)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Austin Motor Company 」があります。




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