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日立製作所本社サッカー部(ひたちせいさくしょほんしゃサッカーぶ)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日立製作所のサッカー部として1940年に創部した。日本プロサッカーリーグに加盟する柏レイソルの前身となったクラブである。 == 概要 == 1935年に開催された関東蹴球協会(現:関東サッカー協会)主催の第4回関東実業団蹴球大会の1回戦(対東京記者団、7-0で勝利)が文献から確認できる「日立製作所」の初めての公式戦であり〔朝日新聞東京、1935年3月18日、2016年2月21日閲覧〕、この大会で準優勝の成績を収めている〔朝日新聞東京、1935年4月15日、2016年2月21日閲覧〕。以降も関東実業団蹴球大会に出場し、第5回(1936年)および第6回(1937年)で準優勝。第7回大会(1938年)は決勝で千代田生命保険を破り優勝した〔朝日新聞東京、1938年4月17日、2016年2月21日閲覧〕。 なお、本サッカー部の創設年は一般に1940年であり、当初は「日立製作所本社サッカー部(日立本社サッカー部)」の名称であった。この「日立本社サッカー部」が創設された1940年以降で確認できる初の公式戦である第10回関東実業団蹴球大会の1回戦・明治製菓戦(1941年2月2日)は2-0で勝利〔朝日新聞東京、1941年2月3日、2016年2月21日閲覧〕。なお、同大会は決勝で第一生命保険に敗れ準優勝に終わった。1941年4月16日、関東実業団蹴球連盟の総会で創設が決定された「関東東実業団蹴球」(リーグ戦)の4部へ所属することが承認された(他に古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)や日本勧業銀行、日本曹達など)〔「実業団蹴球の加盟チーム」朝日新聞東京、1941年4月18日、2016年2月16日閲覧〕が、同年12月からの太平洋戦争勃発によりサッカー部の活動は休止を余儀なくされた。 終戦後の1946年に活動を再開。1947年に高橋英辰が茨城日立から本社へ転属した〔ロク・フットボールクラブ(ロクFCJr.)U-12 - ロクFC名称の由来 〕。 全日本実業団サッカー選手権大会は1951年の第4回大会から参加し決勝に進出したが田辺製薬に敗れて準優勝。1952年(第5回)、1953年(第6回)、1954年(第7回)も決勝に進出したがいずれも田辺製薬に敗れた。1958年の第11回大会は決勝で古河電工を破って実業団選手権初優勝を果たし〔、1963年には全国都市対抗サッカー選手権大会で初優勝した。1960年に天皇杯に初出場して3位に入った。 1965年に創設された日本サッカーリーグ(JSL)に初年度から参加した〔が、1960年代は低迷して1968年および1969年は入替戦に回った(いずれも勝利)。なお、リーグ創設の際には古河電工(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、三菱重工(現浦和レッドダイヤモンズ)と中心的な役割を果たした事から「丸の内御三家」と称された。 1970年代には高橋英辰監督の厳しい指導により「走る日立」の異名をとり、1972年にはJSLおよび天皇杯で共に優勝して2冠を獲得した。なお、日立が獲得したタイトルは全て高橋の指揮下にあった1970年から76年に獲得したものであった。 一方で夜間にも練習が可能な専用のグラウンドを確保できたのは高橋が本格的なチーム強化を図るようになった70年代に入ってからであり、また、この時期でもなお選手は社業が終わってからの練習開始だった。この時点で三菱、古河は既に就業時間内に練習が可能になる体制を確保していたからこの遅れは顕著であった。80年代に入っても選手の給料体系にサッカーをすることで得られる付属分が組み込まれておらず、1980年代末にマネージャーとしてチームに復帰した久米一正は先ずこの点の改善から手をつけなければならなかった。 これは古河や三菱重工に比べて日立が最もアマチュアリズムに対して保守的であったことを示している。高橋が定年によりチームを離れてから成績は徐々に下降線を辿り、プロリーグ化への移行が具体的に検討され始めた1980年代末から1990年代初めには日立はJSL1部と2部の間を行き来していた。日立は御三家の中で唯一Jリーグの開幕時参加を果たす事が出来なかった。 1992年から日立柏レイソルとしてJリーグ準会員となり、同年からジャパンフットボールリーグに参加した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日立製作所本社サッカー部」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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