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日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった鉱山で、主に銅と硫化鉄鉱を産出した。1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、同年久原房之助が経営に乗り出し、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された。久原の経営開始以後大きく発展し、1905年(明治38年)から閉山となった1981年(昭和56年)までの76年間に、約3000万トンの粗鉱を採掘し、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つとなった〔日本鉱業株式会社日立精錬所(1986)p.67、坂野、2008、「阿武隈山地 日立鉱山」日本地質学会編(2008)p.122所収〕〔井上(2005)によれば日立鉱山における鉱石生産量は、日立鉱山や日本鉱業の各資料に記載されている数字が産出される粗鉱量であったり精錬所で精練が行われた精鉱量であったりして統一的な記載がなく、また各資料から導き出される数字に矛盾も見受けられるとする。実際、岩間(1983)のように日立鉱山での鉱石産出量を1000万トンとする研究者もいる。ここでは日本鉱業株式会社日立精錬所(1986)、鉱山の歴史を記録する市民の会(1988)、「阿武隈山地 日立鉱山」日本地質学会編(2008)など、広く採用されている3000万トンとした。〕。日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成され、また日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から日立製作所が誕生しており、日立鉱山は日本の近代産業史に大きな足跡を残している。 日立鉱山の南隣には硫化鉄鉱を主に産出した諏訪鉱山があり、1917年(大正6年)に久原鉱業によって買収された後は日立鉱山の支山となり、1965年(昭和40年)の閉山まで稼動が続けられた。ここでは日立鉱山とともに諏訪鉱山についても説明を行う。 == 位置と環境 == 日立鉱山は宮城県南部から福島県東部、そして茨城県の太平洋側に沿って広がる阿武隈山地の南端部に位置している。日立鉱山がある付近の阿武隈山地は、高いところでも標高600メートル程度のなだらかな山地である。鉱山は宮田川の上流部に当たる赤沢谷に沿って開発が開始され、1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた〔佐藤、1988、「赤沢の自然」鉱山の歴史を記録する市民の会(1988)pp.5-7所収、竹内、2008、「中・古生界 地質概説」日本地質学会編(2008)p.66所収〕。 宮田川は源流から太平洋に注ぐ河口まで約8キロという短い河川で、日本の多くの鉱山が交通の不便な山地深くに位置しているのに比べて、日立鉱山は恵まれた場所に存在していた〔佐藤、1988、「赤沢の自然」鉱山の歴史を記録する市民の会(1988)p.11所収〕。事実、日立鉱山の開発が本格化する以前の1897年(明治30年)には、日本鉄道によって常磐線が水戸駅から平駅まで延伸されており、また日立港も1967年(昭和42年)に重要港湾に指定されるなど鉱山に比較的近接した場所に整備され、交通の便の良さは日立鉱山の歴史に大きな影響を与えることになる。しかし鉱山の中心部は小河川である宮田川上流部の標高約300メートルの谷間にあり、精錬などの鉱山経営や鉱山で働く人々が使用する水の確保には苦労し、宮田川の支流などから貯水池に導水したり、鉱山内から湧出する水を浄化して用いるなどの対策を行った〔佐藤、1988、「赤沢の自然」鉱山の歴史を記録する市民の会(1988)p.11-12所収〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日立鉱山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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