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日系アルゼンチン人(にっけいアルゼンチンじん、)とは日本にルーツを持つアルゼンチンの市民である。 == 歴史 == アルゼンチンに足を踏み入れた日本人で、最も古く記録されているのは、1597年に奴隷であることを不服として訴訟を起こし、解放を勝ち取ったフランシスコ・ハポンである〔 2009年5月29日閲覧〕。 その後、19世紀になってから本格的な日本人の海外移民が始まった後、1886年に牧野金蔵が最初にアルゼンチンに移住し、日系アルゼンチン人第1号となった。その後、伊藤清蔵が、約8000haの富士牧場を経営する。20世紀にブラジル移民が解禁され、1908年に日本からブラジルに向けて移民船の笠戸丸が出港した際、780人の日本人内160人がブラジルのサントスに着く前にブエノスアイレスで下船した。その後第二次世界大戦までに、ブラジルやペルーやパラグアイといった他の南米諸国から少なくない数の日系人がアルゼンチンに再移住した。日系人はブエノスアイレスやその近郊で工場労働者や港湾労働者として働いた他、花卉栽培や洗濯業に従事し、地方で農業に従事する者も存在した。戦前の日系人の多くは沖縄県や鹿児島県の出身だった。 第二次世界大戦が始まった後、1943年に政権を握った統一将校団(GOU)の軍事政権は親枢軸と絶対中立を標榜しており、連合国との協調を重視した他のラテンアメリカ諸国よりも弾圧が少なかったことに加え、当時労働大臣となり労働者階級に大きな支持基盤を築いたフアン・ペロン将軍が親枢軸志向と親日的な傾向から日系人を重用したこともあり〔津田正夫 『ボカ共和国見聞記 知られざるアルゼンチン』 中公文庫、1984年 pp.130-131〕、日本語教育や日系人の集会の禁止といった措置は採られたものの、アルゼンチンは1000を超える日系人人口を擁する国としては、ほぼ唯一の財産没収やアメリカ合衆国の強制収容所への追放(日系人の強制収容)などの大規模な弾圧の歴史を持たない国となった。 第二次世界大戦後、日本政府とアルゼンチン政府の協定により、100人規模の移民が続いた。1959年にはメソポタミア地方のミシオネス州に、1962年にはクージョのメンドーサ州に移住地が設立された。 しかし、その後のアルゼンチンが政治不安により、戦前占めていた先進国の一角としての立場を失い、一方で戦後日本の急速な経済成長やバブル景気による労働力不足の影響もあり、1990年の日本の入国管理法の改正以降、少なからざる日系アルゼンチン人が日本に「デカセギ」(:es:Dekasegi)や逆移住を行い、日系コミュニティの空洞化現象が指摘されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日系アルゼンチン人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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