翻訳と辞書
Words near each other
・ 日系四世
・ 日系社会青年ボランティア
・ 日系米人
・ 日系米国人
・ 日系集団地巡回診療
・ 日系韓国人
・ 日紀
・ 日純
・ 日純 (大石寺)
・ 日紡平野
日紡貝塚
・ 日紫喜勝也
・ 日絆工業
・ 日絆薬品工業
・ 日経
・ 日経225
・ 日経225mini
・ 日経225オプション
・ 日経225オプション取引
・ 日経225先物


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

日紡貝塚 : ミニ英和和英辞書
日紡貝塚[にち, ひ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
: [かい]
 【名詞】 1. shell 2. shellfish 
貝塚 : [かいづか]
 【名詞】 1. shell heap 2. shell mound 3. kitchen midden
: [つか]
 【名詞】 1. mound 

日紡貝塚 ( リダイレクト:ユニチカ・フェニックス ) : ウィキペディア日本語版
ユニチカ・フェニックス[つか]

ユニチカ・フェニックスは、かつて大阪府貝塚市を本拠地として活動していた日本の女子バレーボールチーム。東京五輪で金メダルを獲得した「東洋の魔女」の母体であり、現在V・プレミアリーグに所属する東レ・アローズの前身となったチームである。
== 歴史 ==
ユニチカの前身である大日本紡績では、当初各工場ごとに女子バレーボール部があり、『日紡尼崎』が最も早くから活躍を見せ、次いで『日紡足利』が台頭するようになっていた。両チームとも全日本女子総合優勝を果たした強豪チームであったが、1953年に大日本紡績は女子バレーボール活動を貝塚工場に統合させることを決定。翌1954年に大日本紡績代表女子バレーボールチーム『日紡貝塚』〔ニチボー株式会社へ社名を変更した1964年以降は『ニチボー貝塚』が正式表記であるが、ニチボー表記も1950年頃から社内外で広く使用されていた。〕が結成され、監督に大松博文が就任した。
1959年から1966年にかけて258連勝という大記録を樹立(''ニチボー貝塚258連勝の戦績一覧を参照'')。『東洋の魔女』の異名で呼ばれるきっかけとなった1961年の欧州遠征では22戦全勝を果たし、日本スポーツ賞を受賞。翌1962年の世界選手権では日紡貝塚単独編成の全日本女子代表チームで優勝。1964年東京オリンピックでもほとんどの日本代表選手を輩出し、金メダル獲得に大きく貢献した。
1969年、日本レイヨンとの合併による社名変更に伴い、チーム名をユニチカ貝塚に変更。1977年に拠点名を廃してユニチカ、1991年からは愛称を加えてユニチカ・フェニックスとなった。
世界選手権1回、日本リーグ6回、全日本総合16回(6人制と9人制の合計)、黒鷲旗全日本選抜19回、国民体育大会9回(6人制と9人制の合計)、全日本実業団4回(6人制と9人制の合計)、NHK杯6回、四強シリーズ1回の優勝を果たした。獲得した主要タイトル計62回は、日立ベルフィーユの53回を上回る歴代最多記録であり、女子リーグでは強豪の地位を不動のものとしていた。
しかし、長期不況による経営悪化を受けて1997年3月に貝塚工場が操業を停止。チームも2000年7月に活動を休止した。選手全員の完全移籍を目指し交渉を行った結果、同年9月に東レ滋賀事業場が選手全員の受け入れを発表。チーム全体で東レ・アローズへ移籍する運びとなった。
2003年にはユニチカ貝塚体育館が日本バレーボール協会貝塚ナショナルトレーニングセンターとなり、全日本女子代表チームの合宿などに活用されている。また、2005年には体育館に隣接する旧ユニチカ貝塚工場事務所が貝塚市歴史展示館となり、優勝カップ等が展示されている。
フェニックスのチーム愛称については同社女子バスケットボール部(旧ニチボー平野)も使用していたが、こちらも2004年に廃部となったため、翌2005年から同社ラグビー部(トップウェストA1所属。前身は日本レイヨン)が使用している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ユニチカ・フェニックス」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.