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日本とポルトガルの関係では、日本とポルトガルの関係について概説する。なお、1581年から1640年まで、スペイン王がポルトガル王を兼ねている(ポルトガルの歴史参照)が、ポルトガルの統治機構などは維持されているため、本稿ではその時期も含めて記述する。 == 歴史 == === 鎖国まで === 大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。そして1543年、種子島へポルトガル商人が漂着(鉄砲伝来)したことが日本へのポルトガル人の最初の上陸であったとされている〔日本人とポルトガル人の接触という面においては、マラッカ諸島をポルトガルが植民地化した頃より商人同士のつながりがあったようである〕。ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地および貿易相手国を求め進出を行っており、日本との接触ののち通商を求める商人の動きが活発化した。また、貿易はキリスト教布教を伴って行われるものとの戦略があり〔トルデシリャス条約で明確に決定されている。〕、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった〔九州はキリスト教徒の普及が全国で最も進み、キリシタン大名なども存在するため、貿易・布教活動のし易い環境にあった。〕。ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。 ;日本布教区布教長〔全員ポルトガル人である。〕 #フランシスコ・ザビエル(1549年 - 1551年) #コスメ・デ・トーレス(1551年 - 1570年) #フランシスコ・カブラル(1571年 - 1580年) ;日本司教〔府内司教区は1588年1月、日本列島を管轄として設置された。初代府内司教のセバスティアン・モラーレスはイエズス会士であったが、着任前に洋上で病死していた。府内のキリスト教徒共同体は1587年に破壊されており、着任した司教はみな日本では長崎を拠点とし、日本司教を名乗った。〕 #セバスティアン・モラーレス(1588年 - 1593年) #ペドロ・マルティンス(1593年 - 1598年) #ルイス・セルケイラ(1598年 - 1614年) しかし1587年には豊臣秀吉によってバテレン追放令が出され、ポルトガルに宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書が手渡された。江戸時代に入っても徳川家康によってこの政策は踏襲されている(1614年のキリスト教禁止令)。1620年には平山常陳事件が起き、幕府のキリスト教に対する不信感は決定的なものとなり、貿易も平戸と長崎に制限して行われるようになった。 幕府は1633年から1636年にかけて、朱印船貿易やヨーロッパ諸国、中国人との貿易の管理・統制を担っていた長崎奉行が長崎に赴任する際に、奉行の職務に関する通達(「鎖国令」)を発布し、禁教と、国際紛争の回避を徹底させようとした。1635年年の通達(「第3次鎖国令」)では、日本人の東南アジアへの渡航と、日本町への渡航が全面的に禁止し、1636年の通達(「第4次鎖国令」)では、貿易に関係のないポルトガル人およびその家族がマカオへ追放し、ポルトガル人は長崎の出島に隔離された。 出島を建設した時点では幕府は、ポルトガルとの追放を考えていなかったが、1637年に島原の乱が起こると、キリスト教徒の結束を恐れた幕府は布教を行う可能性のあるポルトガルとの貿易を取りやめることとし、1638年に、マカオから江戸に派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否した。しかし現実には、マカオからもたらされる、中国産の生糸や絹織物などに大きく依存していたために、幕府はポルトガルとの貿易の途絶をためらった。 しかし、1639年に幕府は、オランダ商館長のフランソワ・カロンから、オランダの植民地であった台湾に中国人が渡航しているために、台湾経由でオランダが中国産の生糸や絹織物をできることを確認し、ポルトガルとの貿易を途絶しても支障がないことを確認した。そして、同年に長崎奉行や九州地方の大名などに、ポルトガル船の入港の禁止や沿岸警備体制の構築を目的とした通達(「第5次鎖国令」)を発布し、ポルトガルとの関係を断絶した。1640年にはマカオから日本へ貿易再開を嘆願する使節が派遣されたが、全員捕えられ処刑されている。 「鎖国」中は日本とポルトガルは直接的な接触を行うことは無かったが、東南アジア各地に残された日本人町ではポルトガル人との交易も暫くの間続いた。また、オランダ風説書などのオランダ人によってもたらされた情報によってポルトガルとスペインの動向はある程度江戸幕府も把握しており、英国船リターン号が1673年に貿易再開を求めて来航した際には、事前に英国王がポルトガル女王と結婚した事実なども把握していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本とポルトガルの関係」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Japan-Portugal relations 」があります。 スポンサード リンク
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