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日蘭関係(にちらんかんけい)では、日本とオランダの関係について解説する。 ==概説== 日蘭関係の歴史は、17世紀初頭まで遡ることができる。江戸時代初期から幕末に至るまで、「祖法」として固守された鎖国政策の中にあっても、ヨーロッパ諸国では唯一、オランダとは長崎貿易を通じて外交貿易関係を維持し続けた〔オランダ商館は、1609年(慶長14年)に平戸に設置され、1641年(寛永18年)の長崎・出島への移設を経て、1860年(万延元年)に閉鎖された。〕。この間、日本に到来したオランダ船は、1621年(元和7年)から1847年(弘化4年)までの227年間に、延べ700隻以上にのぼる。江戸幕府は、オランダから毎年もたらされるオランダ風説書の情報によって国際情勢を知り、対外政策を決定した。また、ヨーロッパから伝来した学問・技術に関する研究は、そのほとんどがオランダおよびオランダ語を通じて摂取されたため蘭学と呼ばれ、幕末から明治維新以降にはじまる急激な知的開国の下地を形成した。 明治時代以降もおおむね良好な外交関係を維持したものの、昭和時代に入ると関係は悪化する。太平洋戦争の開戦後、イギリスに亡命していたオランダ政府は、日本へ宣戦布告した。両国は戦争状態に入り、日本軍はオランダ領東インドなどに進攻した。数年間の敵対関係を経て、戦後、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により、両国の親交は復活した。 文化交流、経済交流は活発で、要人の往来も頻繁に行われる。特に、日本の皇室とオランダ王室の関係は親密で、2006年(平成18年)8月には、日本の皇太子徳仁親王と同妃雅子および愛子内親王が、オランダに異例の長期旅行・滞在を行った。2000年(平成12年)に日蘭交流400周年〔1600年(慶長5年)にオランダ船デ・リーフデ号が現在の大分県臼杵に漂着し、交流開始から400年。〕、2008年(平成20年)に日蘭外交関係開設150周年〔1858年(安政5年)にオランダとの間で日蘭修好通商条約を締結してから150年。〕、2009年(平成21年)には通商400周年〔1609年(慶長14年)、徳川家康による通商許可証(朱印状)が交付されてから400年。〕を迎え、両国において様々な周年事業を実施した〔各国・地域情勢:オランダ王国 、外務省。〕。 日本の外務省は、「400年に及ぶ歴史的伝統的友好関係を維持。両国の皇室・王室関係は極めて親密。一部の戦争犠牲者による賠償請求問題を除き特に懸案はなし。」と、両国の政治関係を総括している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日蘭関係」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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