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日野 内光(ひの うちみつ、延徳1年(1489年)- 大永7年2月13日(1527年3月15日))は戦国時代の公家・公卿。 == 略歴 == *延徳元年(1489年)、徳大寺実淳の次男として生まれる。(兄に徳大寺公胤、姉に徳大寺維子(近衛尚通正室)がいる。) *日野勝光の子・日野政資(まさすけ)が明応4年(1495年)に嗣子なくして没し、その生前の遺言によって日野家を継ぐこととなった。尚、同年には足利義高(のち足利義澄と改名)が第11代将軍に就任している。 *それよりまもなく元服したものと思われ、日野家の慣例に倣って将軍・義高の偏諱を賜い日野高光(たかみつ)、文亀2年(1502年)7月には義澄(に改名した義高)より重ねて1字を与えられて日野澄光(すみみつ)を名乗ったが、義澄が辞職し前将軍(第10代将軍)の足利義稙が将軍に復職した時(永正5年/1508年)であろうか、のちに内光に改名している。尚、義稙の復帰を助けた一人である細川高国は内光の従甥(叔母の孫)で縁戚関係にあった人物であり、内光自身もこの頃には義稙寄りで、改名の理由もそのためであったと考えられる。 *永正15年(1518年)、子の日野晴光が生まれる。 *大永1年(1521年)には参議、左大弁に任ぜられ、従三位に叙任。同3年(1523年)には権中納言となり、正三位に叙任。更に同6年(1526年)には権大納言となり、ここまで順調に昇進を重ねた。 *大永7年(1527年)、桂川原の戦いで内光は細川高国側(=第12代将軍・足利義晴(義澄の子)側)について敗北し、敗走する途中で討ち死にした(享年39)。 *法名は後広寿院花谷道栄。また、内光死後の永禄2年(1559年)には左大臣を追贈(併せて従一位を追贈、『瑞光院記』による)される。尚、それより前の天文24年(1555年)には跡を継いだ子の晴光およびその実子・晴資も早世して内光の系統は断絶しており、広橋家から輝資が養子入りしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日野内光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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