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生山城(しょうやまじょう)は、鳥取県日野郡日南町生山に存在した日本の城。日野川とその支流の石見川が合流する地点の東、標高470m、比高180m程の山の上に存在していた。別名亀井山城、日野本城。 == 歴史 == 日野山名氏5代目の山名豊幸が築き、一時期は日野山名氏の本拠地であったと伝わる。備後の庄原方面の江の川水系へ繋がる道と、備中の新見方面の高梁川水系に繋がる道の合流地点にあり、山陰から山陽に抜ける交通の要所に築かれている。その為、戦国時代には近隣大名はこの地を重要視した。尼子氏はこの城に直臣を送り直接支配を狙っており、6代目の山名藤幸はこの城を明け渡している。永禄年間の毛利氏の尼子家侵攻によって毛利方に付いた日野山名氏が再度この城を奪還している。永禄5年6月18日の毛利元就・隆元が連署した文書には「伯州之儀日野本城之事…雲州在番中井平三兵衛尉・米原平内罷退候」とあり、尼子氏は城番に中井綱家・米原綱寛らを送っており、毛利氏の侵攻により退去した事が確認されている。山名藤幸の養子となっていた宮景盛の次男、山名景幸が相続し、日野姓を名のって一時的に生山城主となったが後に毛利氏の直轄領となっている。慶長15年(1610年)黒坂藩五万石で関一政が入封した際、黒坂城(別名・鏡山城)が完成する慶長19年(1614年)まで、生山城を居城とした。慶長20年(1615年)の一国一城令にて廃城。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「生山城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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