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日野 栄子(ひの えいし〔、えいこ〔、明徳元年/元中7年(1390年〔) - 永享3年7月27日(1431年9月3日))は、室町時代中期の女性。室町幕府第4代将軍・足利義持の正室。同第5代将軍・足利義量の生母にあたる〔 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.486〕〔 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.218〕。 == 生涯 == 権大納言・日野資康の娘で、大納言・日野重光の妹にあたる〔〔。他に兄に日野豊光、姉に第3代将軍・足利義満の正室となった日野康子、叔母に日野業子がいる。足利義持の正室として嫁ぎ、応永14年7月24日(1407年8月27日)に義量を生んだ〔。 義持との夫婦仲は良好で〔『康富記』応永24年8月24日条によると「室町殿奈良御参詣と云々、御台同御参と云々」とある。〕、義持が奈良や伊勢参詣に赴く際には同伴している〔。栄子も神仏への信仰心が深く〔『康富記』応永27年12月9日条によると「今日室町殿(義持)御台方御参宮なり、御輿十七丁、騎馬三十騎と云々」とある。〕、伊勢神宮や熊野詣に何度も出かけた〔『花営三代記』応永28年3月16日条によると「御台様熊野御参詣有り」とある。〕。義持と同じ趣味である田楽を好んだ。 義持の晩年には大方殿と呼ばれた〔 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.219〕。応永32年2月27日(1425年3月17日)に義量が19歳で早世し、義持も応永35年1月18日(1428年2月3日)に43歳で死去すると、1月19日に常徳院海門和尚を戒師として落髪し〔『建内記』〕、慈受院と号した〔〔。同日に宣下があり、従一位に叙された〔。6月に第6代将軍・足利義教の婚儀があり、その正室には重光の娘・日野重子に決定するが、重子は「不受の気色(不同意、同意しない)」を示したという。このため栄子が重子を説得して嫁がせたと伝わる〔。 永享3年(1431年)7月27日に死去〔〔 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.220〕。享年42〔〔。戒名は竹庭大禅定尼浄賢〔。 将軍の義教が栄子の死に何らかの行動を取った記録は無い〔〔『満済准后日記』では「大方殿今晩卯末か他界、今日御訪のため諸大名参る」とある。〕。 義持との間には義量以外にも2人ずつ男女(男子の名は不明、女子は大聖寺慈敬、喝食御所)がいたようだが〔『花営三代記』応永29年8月24日条によると「御所様公文所より、北野社十七日御参籠あり、御台様、両御喝食姫公御参宮」とある。〕〔、男子は早世し、女子はどうなったかは不明である〔 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.254〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日野栄子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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