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藤原 資業(ふじわら の すけなり)は平安時代中期から後期にかけての公卿。参議・藤原有国の七男。 == 経歴 == 長保5年(1003年)16歳で文章得業生となり、備中権掾に任ぜられる。翌年対策に及第。 寛弘3年(1006年)式部少丞に任ぜられる。翌寛弘4年(1007年)大丞に転じ、寛弘6年(1009年)従五位下・筑後権守に叙任される。刑部少輔、大内記、右少弁を歴任し寛弘8年(1011年)東宮学士を兼任する。寛弘9年(1012年)備中介を務め、長和2年(1013年)従五位上に昇叙される。その後、長和3年(1014年)五位蔵人となる。同年12月、右中弁・藤原定頼が春日社行幸行事を務めることになったが、闘乱によって定頼に変わって資業に改替した〔『小右記』長和3年12月5日条〕。左衛門権佐を経て、長和5年(1016年)左大臣・藤原道長が三條院の院司を定めた際には判官代に任ぜられた〔『小右記』長和5年正月29日条〕。長和6年(1017年)正五位下に叙された。 寛仁元年(1017年)文章博士となる。左少弁を経て、寛仁4年(1020年)従四位上・丹波守に叙任。寛仁5年(1021年)勘解由長官に任ぜられ、翌年正四位下に進む。 丹波守在任中の治安3年12月23日(1024年2月5日)子刻、騎兵十余りが来て中御門にある資業の邸に放火した〔『小右記』治安3年12月23日条〕。その際、家人が相挑んだというが、群盗の力に敵わず燃やされたという。 万寿5年(1018年)播磨守、長暦3年(1039年)伊予守と任ぜられた後、寛徳2年(1045年)従三位となり公卿に列す。 永承元年(1046年)式部大輔となるが、5年後の永承6年(1051年)に出家。法名素舜。日野山庄に隠居し、延久2年(1070年)8月24日〔薨去。享年83。日野法界寺薬師堂を建立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原資業」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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