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日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道(にってつこうぎょうあかたにこうぎょうしょせんようてつどう)は、かつて新潟県北蒲原郡赤谷村内にあった専用鉄道。日鉄鉱業赤谷鉄山から産出される鉄鉱石を運搬するために日本国有鉄道(国鉄)赤谷線東赤谷駅 - 赤谷鉄山間に敷設されていた。 == 歴史 == 赤谷鉄山の開発は明治大正昭和と3次にわたり手がけられたがなかなか実現しなかった。まず1899年(明治32年)に官営八幡製鉄所の所有となり、開山の準備が始められ事務所、官舎、鉱夫長屋が建設され1902年(明治34年)には鉱床開鑿に着手していた。輸送手段は索道に決まり建設をすすめていた。ところが突然八幡製鉄所の原料鉄は中国の鉱山から求めることに方針を転換し1904年(明治36年)3月に工事は中止となり坑道を維持する為の鉱夫を残し明治期の赤谷鉱山開発は3年半あまりで終わった。 大正時代にはいり赤谷の鉄山の再開発が計画され鉱石の輸送手段として国鉄新発田駅 - 赤谷鉄山間に鉄道が敷設されることになった〔1917年建設計画、1918年測量、1919年起工。1920年の官報 (国立国会図書館デジタルコレクション)に土地収用の記事が見られる〕。しかし第一次大戦終結後の不況により開発はまた中止となってしまい、1922年(大正11年)12月に完成していた軌道は放棄された。これに対し建設当初から一般の利用を望んでいた地元の運動により路線敷は国鉄に無償譲渡され1925年(大正14年)11月新発田 - 赤谷間は赤谷線として開通した。しかし赤谷より鉱山までの軌道は軌条砂利とも撤去されてしまった。 満州事変勃発後の1932年(昭和7年)頃から赤谷地区の鉱山開発はにわかに活気づいた。まず石炭鉱の開発が始まり続いて日曹鉱業飯豊鉱山(銅)の本格的な開発が1936年(昭和11年)からすすめられた。採掘を中止していた八幡製鉄所所有の赤谷の鉄山は1934年(昭和9年)2月に設立された日本製鉄へ引き継がれていた。1937年(昭和12年)にはじまった日華事変により内地の地下資源開発が急務とされていたこともあり、同社は1938年(昭和13年)鉱山開発に着手した、そして1939年(昭和14年)5月日鉄鉱業が設立され赤谷の鉱山開発事業を継承することになった。 その鉱石の輸送手段として各坑口(簀立沢、水無、源兵エ野巣、場割澤)より索道を使い袖上平に集め袖上平(赤谷鉄山) - 東赤谷間に鉄道を再び敷設し〔路線敷は鉄道省より借用〕、赤谷 - 東赤谷間は国鉄が建設することとなった。 1941年(昭和16年)4月に赤谷鉄山は採掘を開始〔1940年1月11日免許1940年10月15日運輸開始『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。鉄道の開通をまち6月15日開山式を挙行した。昭和17年からは強制徴用により増産体制を整え18-19年度と年間10万トンの生産を達成した。ところが終戦後は生産量が激減〔20年5.5万トン21年4.8万トン22年2.4万トン〕。規模を縮小することになった。しかし新たに探鉱し有望な鉱量を確保して立て直していった。 また1949年(昭和24年)になると「地方交通難の緩和」を理由として専用鉄道を地方鉄道に変更する申請をしたが、運輸省の担当官の見解は採算性に問題有りとしていた。結局1951年(昭和26年)になり交通事情はその後解決したとして取下げられた〔申請時の輸送量は年間日鉄35,000トン、日曹2,200トン、旅客は1日約180名(片道)であった〕。 ところでこの地方は豪雪地帯であり冬期の約5ヶ月間(11月半から翌年4月まで)は鉄道は不通となるため、鉱山は採鉱を休止しその間鉱夫は他の鉱山へ出稼ぎをしていた。この非能率を解消するため蒸気鉄道を廃止し路線全線にスノーシェッドとトンネルを設けた鉱山用電気軌道を敷設し通年操業を目指すべく1955年(昭和30年)より工事をはじめた。この結果蒸気鉄道は1956年(昭和31年)9月30日の運行が最後となった。廃止後蒸気機関車2両は羽鶴鉱業所に行き、客車2両が地元幼稚園に譲られたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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