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夕張保険金殺人事件(ゆうばりほけんきんさつじんじけん)とは、1984年(昭和59年)に北海道夕張市鹿島(大夕張)で発生した、火災保険および生命保険の保険金詐取を目的とした放火殺人事件。 首謀者の暴力団組長夫婦が、実行犯に放火を指示して犯行に及んだものとされ、夫婦は首謀者として死刑が確定。恩赦による減刑を期待して控訴を取り下げ、自ら刑を確定させたが、期待に反して恩赦は行われず、戦後初めて夫婦2人ともに対して死刑が執行された。 == 事件の背景 == 犯人のH(逮捕当時41歳)は、1943年(昭和18年)に様似郡様似町の7人兄弟の6番目として産まれた。家族が夕張市へ移住した6歳の時に父を失い、母子家庭で育ったHは兄たちの影響で非行を繰り返した。小学6年生の時に教護院に入り、15歳までをそこで過ごし、その後はトラック運転手や炭鉱労働者、調理師見習いなどを経て、17歳ごろから暴力団員として活動するようになった。1969年(昭和44年)に結婚して、子供ももうけた。 Hの妻(逮捕当時38歳)は、1946年(昭和21年)に7人兄妹の4女として夕張市で産まれた。高校時代には不良として地元では有名だったが、卒業後は上京して美容師学校に1年間通った。その後夕張に戻り、交際していた暴力団員と結婚。1児をもうけたが、夫はガンで死亡。市内のバーでホステスをしていた際にHと知り合い、2人は1972年(昭和47年)に再婚した。 2人は1970年(昭和45年)頃から、三菱大夕張炭鉱の下請会社「H班」(社名Hは自らの姓)を興し社長夫婦となり、炭鉱作業員を斡旋する手配師業を行うようになっていた。1976年(昭和51年)には「H班」を「有限会社H興業」「有限会社H商事」とする一方で、Hは暴力団初代誠友会H組組長と称して金融業や水商売も手掛けた。だがHは暴力事件や覚せい剤所持、銃刀法違反などで有罪判決を受け、懲役刑に処され刑務所で服役するなどしており商売にならず、実際の会社経営は妻が取り仕切っていた。1977年(昭和52年)に会社は一旦倒産するも、間もなく妻は「有限会社K工業(Kは大夕張の字名)」や「H班」などを相次いで設立・再興し、女手一つで手配師業を続けていた。 そのような状況を一変させたのが、1981年(昭和56年)10月に発生した北炭夕張新炭鉱ガス突出事故である。この時も、服役中のHに代わって妻が会社を経営していたが、H班が現場に派遣していた作業員7人が事故で死亡し、作業員にかけられていた多額の死亡保険金が会社に振り込まれた。作業員の遺族に支払われた分を除いても、夫婦の手元に残った金は1億円以上に上ったという。思いがけず大金を入手した夫婦は、夫が刑務所から戻った後、夕張市南部青葉町の夕張川を望む地に白亜2階建ての自宅兼事務所を新築したり、子供たちにポニーを買い与えたりするほか、妻が経営するスナックの改装やアクセサリー店やダイエット食品店の開業資金、さらに高級車リンカーンを買いあさるなどの浪費を重ね、わずか2年足らずで保険金を使い果たしてしまった。もともと1970年代から閉山が相次いでいた夕張の炭鉱業が、新炭鉱での事故をきっかけに急速に衰退したこともあり、多額の借金を負った夫婦の生活は困窮した。そこで、夫婦は札幌で新たにデートクラブを開業しようと考え、そのための資金を得る目的で保険金詐欺の計画を立案するに至る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「夕張保険金殺人事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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