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旧下野煉化製造会社煉瓦窯(きゅうしもつけれんがせいぞうがいしゃれんががま)は、、栃木県下都賀郡野木町野木にある近代化遺産であり、赤煉瓦の製造に用いられた設備である。国の重要文化財に指定されている。 == 下野煉化製造会社の歴史 == 明治21年(1888年)10月、赤煉瓦(レンガ)製造のために「下野煉化製造会社」が設立された。出資者は、三井物産の三井武之助・益田孝・馬越恭平を中心とし、旧古河藩主土井利与や古河城下の豪商・丸山定之助らも参加した。初代理事長は丸山定之助であった。明治22年(1889年)には、野木村大手箱で赤煉瓦の製造が開始される。隣接する旧谷中村(現在は渡良瀬遊水地)では、原料となる良質な粘土が産出し、思川・渡良瀬川の水運により、製品輸送も容易であったため、煉瓦製造に適した立地であった〔野木町史編さん委員会 編 『野木町史 歴史編』 野木町、1989年、769-779頁(下野煉化製造会社の創業)〕。 当初、赤煉瓦焼成窯は登り窯1基だけであったが、明治23年(1890年)6月10日に、「ホフマン式輪窯」と呼ばれる当時最新鋭の煉瓦窯(東窯)が完成し、続いて、明治25年には同じホフマン式の西窯が完成して、赤煉瓦製造が本格的に開始された。このうち、ホフマン式の東窯が現存している〔。西窯は1923年の関東大震災で倒壊した。 明治26年(1893年)、株式会社に移行して、社名を「下野煉化株式会社」に改め、理事長は馬越恭平に交代した。赤煉瓦の生産量は、明治27年(1894年)には475万個、明治28年(1895年)には563万個、明治29年(1896年)には619万5千個と増大し、以後、大正期・昭和期にわたり、工場や鉄道建設のために赤煉瓦を供給した。昭和46年(1971年)、社名を「株式会社シモレン」に改め、昭和47年(1972年)に需要の衰退により、赤煉瓦製造販売が中止された。〔 昭和54年(1979年)2月3日(文部省告示第8号)現存していたホフマン式の東窯が国の重要文化財に指定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「旧下野煉化製造会社煉瓦窯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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