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両国国技館(りょうごくこくぎかん)は、東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。また、ボクシングなどの格闘技の試合に使われることもある。なお、両国国技館という呼称は一般向けの通称であり、正式名称は、国技館(こくぎかん)である。 1833年(天保4年)から回向院で相撲興行が行われていたことから、1909年(明治42年)に旧国技館は、同境内に建設された。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築(屋根は法隆寺金堂を真似た)の建物となり、一万三千人収容できた。開館当初は仮称であったが、翌年から国技館という呼び方が定着し、鉄柱308本と鉄材538tで造られた大屋根が巨大な傘に見えたため、大鉄傘という言葉で愛称されていた。その後、日本大学が日本相撲協会から旧国技館(墨田区両国)を購入し、1958年(昭和33年)から1982年(昭和57年)までの間は、日本大学講堂であった(下記詳述)。回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている。 番付では、旧字体で國技館と表記している。 == 沿革 == === 旧国技館 === 先代は現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。 1906年6月着工、3年後の1909年5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは小屋掛け(臨時に設備を設けて行なうこと)による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。 設計は日本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾とその教え子葛西萬司で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。 「國技舘」の名称は、明治42年(1909年)5月29日に板垣退助伯爵を委員長とする常設館委員会で話し合われるも決まらず、開館式の前日明治42年6月2日に了承される。よって、開館当所は「両国元町常設館」と書かれていた。作家の江見水蔭が執筆した開館式の案内文(「相撲は日本の国技なり」という内容)にヒントを得て、当時年寄で検査役でもあった尾車(元:大関大戸平)が提案した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「両国国技館」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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