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日光街道(にっこう かいどう)は、日本の江戸時代に設けられていた五街道の一つ。 江戸日本橋(武蔵国豊島郡日本橋、現在の東京都中央区日本橋)を起点とし、日光坊中(下野国都賀郡日光東照宮、現在の栃木県日光市山内)に至る街道。 道中には21の宿場が置かれていた。日本橋から宇都宮までの道程は奥州街道と共通であった。この区間にはもともと古道奥州道があったが、日光街道の開通とともに日光街道と称されるようになった。 現在も国道4号(宇都宮市以南)と国道119号の通称として用いられる。 == 概説 == 日光街道は江戸時代に徳川幕府の政策として整備された五街道のひとつで、1636年(寛永13年)江戸 - 下野国日光間に開通した。江戸から徳川家康を祀る日光山に至る主要道路として東海道に次いで整備されている。もともと日本橋から宇都宮城(宇都宮宿)までの区間には古道奥州道が通っており、その北部区間の宇都宮城下から鉢石宿間にも古道日光街道が通っていたが、宇都宮 - 日光間にはその東側に新たにこれと並行する道が設置されている。宇都宮城下では城主本多正純の下で宇都宮城の整備と町割りが行われ、その西部に宇都宮宿が新たに設けられた。日光街道は旧奥州道を辿って北上し、宇都宮城の手前の不動堂付近で古道奥州道から外れ、城の西側方面に一旦折れた後に北上する経路が取られ、宿内の新石町と伝馬町、本郷町の界隈に新奥州街道との追分が設けられた。ここより奥州街道は東進し、日光街道は北進する。かつて沿道には杉の木が植えられ、特に松平正綱は約20年に亘って植樹を続けたといわれている。現在も栃木県日光市の一部区間に日光杉並木として残されている。 日光西街道または日光中壬生通りと呼ばれる街道は、小山宿(現小山市)北部の馬頭観音堂付近(喜沢村または木沢村)で分岐し、壬生城下壬生宿、鹿沼城下鹿沼宿などを経て今市宿に至り、ここで再び日光街道にもどる。 日光街道の敷設の目的として、歴代徳川将軍の東照大権現への参拝、すなわち日光東照宮への参詣と云われているが、もともと五街道を計画したのは徳川家康であり、その際に日光山の参詣を目的とする街道を徳川幕府の政策上の重要路線としていたとは考えにくい。実際、徳川幕府の将軍家が日光参詣する折には、江戸城下の本郷追分から日光御成街道を通るのが通例であり、幸手宿までの区間は日光街道は使われておらず、また小山宿以北は日光街道だけでなく、壬生道および日光例幣使街道を経て日光へ至る経路も併せて用いられており、このことからも、本来江戸から下野国を経て奥州方面に至る物流の動脈路線として計画、整備されたものであることが容易に推察される。 宇都宮市内の桜並木区間は、日本さくら名所100選に選定されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日光街道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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