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早川 兼彜(はやかわ かねのり)(通称早川五郎兵衛)〔在琉英仏人ノ動静報告 申五月六日 早川五郎兵衛 将曹様 〕 〔巳正月九日 早川五郎兵衛 主水様(赤松則甫) 〕は、江戸時代後期の薩摩藩士。島津斉彬の下で江戸御留守居役を務め。早川兼知(早川五郎)〔http://www.city.kagoshima.lg.jp/var/rev0/0047/3666/2012510154932.pdf#search='%E6%97%A9%E5%B7%9D%E5%85%BC%E7%9F%A5' P77/P202 「南洲神社」。〕、早川辰彦〔『西南の役戦歿者名簿』南洲神社編 P7〕〔1877年(明治10年)4月22日熊本県御船にて戦死。享年15。1883年(明治16年)3月11日南洲墓地に改葬。〕の父にあたる。 == 生涯 == ※月日は旧暦 *文化11年(1814年)10月26日、早川兼典(環)の二男として薩摩藩芝西向御屋鋪にて生まれる。 *文政2年(1819年)9月24日、祖父・兼備(安積)が大隅国始羅郡帖佐郷地頭を拝命。 *文政3年(1820年)8月15日、父、祖父、曾祖父「酔好(早川兼親)」と共に、江戸から国許へ。 *文政3年(1820年)10月2日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪〔場所は、『鹿児島御城下明細図:索引』塩満郁夫編によると、 No1602 早川安積 外堀の東、竪馬場の西、立野馬場の南と記載されている。(なお、フリガナに「ハヤカワアサカ」とあるが、正しくは、「ハヤカワアヅミ」である。)〕に着く。 *九郎右衛門 家格代々新番。 *天保11年(1840年)10月10日、九郎右衛門 御使番。 *父「鯉翁」を伴い、江戸屋鋪へ移る。 *天保15年(1844年)3月27日、五郎兵衛 家格代々小番。 *父「鯉翁」を伴い、鹿児島高見馬場拝領地へ移る。 *文久3年(1863年)7月2日、五郎兵衛 薩英戦争に従軍。 *隠居し、家督を早川兼知へ譲る。隠居名として『如水』と名乗る。 *明治11年(1878年)11月3日、鹿児島にて死去。享年65〔鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地内に墓石がある。墓碑銘『早川如水』。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「早川兼彜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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