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早川 兼備(はやかわ かねみつ)は、江戸時代後期の薩摩藩士。早川兼典(早川環)〔『仰望節録(ぎょうぼうせつろく)』天保3年(1832)早川兼典「仰望節録序」、天保3年曾槃自序。 〕の父。 早川兼彜(早川五郎兵衛)〔在琉英仏人ノ動静報告 申五月六日 早川五郎兵衛 将曹様 〕 〔巳正月九日 早川五郎兵衛 主水様(赤松則甫) 〕の祖父にあたる。 == 生涯 == ※月日は旧暦 *宝暦12年(1762年)11月16日、日向国高鍋藩藩主秋月種茂の老職岡本勝寛(八郎左衛門)の末男として日向高鍋で生まれる。 *天明3年(1783年)12月7日、早川兼親の養子となる。 *文化10年(1813年)4月28日、家格代々小番。 *文化10年(1813年)5月9日、早川兼親が隠居し、家督を相続する。渡殿と改名。 *文政2年(1819年)9月24日、大隅国始羅郡帖佐郷地頭を拝命。 *文政3年(1820年)8月15日、養父酔好(兼親(かねちか)、通称:九郎右衛門)を伴い、江戸から国許へ。 *文政3年(1820年)10月2日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪〔場所は、『鹿児島御城下明細図:索引』塩満郁夫編によると、 No1602 早川安積 外堀の東、竪馬場の西、立野馬場の南と記載されている。(なお、フリガナに「ハヤカワアサカ」とあるが、正しくは、「ハヤカワアヅミ」である。)〕に着く。 *文政5年(1822年)4月5日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪にて死去。享年61〔鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地内に墓石がある。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「早川兼備」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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