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早川 兼典(はやかわ かねつね)〔『仰望節録(ぎょうぼうせつろく)』天保3年(1832)早川兼典「仰望節録序」、天保3年曾槃自序。 〕は、江戸時代後期の薩摩藩士。早川兼彜(早川五郎兵衛)〔在琉英仏人ノ動静報告 申五月六日 早川五郎兵衛 将曹様 〕 〔巳正月九日 早川五郎兵衛 主水様(赤松則甫) 〕の父にあたる。 == 生涯 == ※月日は旧暦 *天明6年(1786年)11月18日、早川兼備(渡殿)の長男として薩摩藩大崎御屋鋪にて生まれる。 *文政2年(1819年)9月24日、父・兼備(安積)が大隅国始羅郡帖佐郷地頭を拝命。 *文政3年(1820年)8月15日、父、および、祖父酔好(兼親)と共に、江戸から国許へ。 *文政3年(1820年)10月2日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪〔場所は、『鹿児島御城下明細図:索引』塩満郁夫編によると、 No1602 早川安積 外堀の東、竪馬場の西、立野馬場の南と記載されている。(なお、フリガナに「ハヤカワアサカ」とあるが、正しくは、「ハヤカワアヅミ」である。)〕に着く。 *文政5年(1822年)4月5日、父・兼備(安積)が死去、37歳で家督を相続。 *一代御家老組(家格一代寄合)。 *隠居し、家督を兼彜へ譲る。隠居名として『鯉翁』と名乗る。 *兼彜と共に、江戸屋鋪へ移る。 *兼彜と共に、鹿児島高見馬場拝領地へ移る。 *慶應4年(1868年)2月29日、鹿児島高見馬場拝領屋鋪にて死去。享年83〔鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地内に墓石がある。墓碑銘『南嶺院殿壽譽良還法師』。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「早川兼典」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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