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早川 兼親(はやかわ かねちか)は、江戸時代後期の薩摩藩士。早川兼備(早川安積)〔『鹿児島県姓氏家系大辞典』(角川日本姓氏歴史人物大辞典)の711ページ 早川安積〕の養父。 宝暦12年(1762年)9月6日、島津重豪の御下命に依り、早川兼猶の二男・兼親が別家を興し、初代となる〔 早川家所蔵の『古文書』〕。早川兼典(早川環)〔『仰望節録(ぎょうぼうせつろく)』天保3年(1832)早川兼典「仰望節録序」、天保3年曾槃自序。 〕の祖父、早川兼彜(早川五郎兵衛)〔在琉英仏人ノ動静報告 申五月六日 早川五郎兵衛 将曹様 〕 〔巳正月九日 早川五郎兵衛 主水様(赤松則甫) 〕の曾祖父にあたる。 島津重豪より拝領の家紋〔鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地内『早川家』墓所、鹿児島県鹿児島市南洲墓地の『早川辰彦』の墓石、および、東京芝白金瑞聖寺内『早川家』墓石に刻まれている。〕 (右側:女性用の女紋) == 生涯 == ※月日は旧暦 *享保21年(1736年)4月12日、早川兼猶の二男として武蔵国荏原郡芝高輪薩摩藩下邸にて生まれる。 *寛延3年(1750年)2月、島津重年に始見。 *寛延4年(1751年)1月28日、御番入。 *宝暦12年(1762年)9月6日、島津重豪の御下命に依り、早川兼親家を興し初代となる。また、家紋を拝領する。 *明和4年(1767年)、松平阿波守家臣村瀬善左衛門の娘葉屋と結婚。 *安永4年(1775年)1月15日、南向御屋鋪へ移る。 *安永6年(1777年)、島津重豪の御下国に御供を務める。 *安永7年(1778年)1月21日、鹿児島より御供。 *安永8年(1779年)5月15日、重豪の御発駕に御供を務める。 *安永9年(1780年)1月9日、鹿児島より御供。 *安永10年(1781年)3月28日、重豪の御発駕に御供を務める。 *天明元年(1781年)11月、鹿児島より到着、大崎御屋鋪へ移る。 *天明3年(1783年)12月7日、日州高鍋藩藩主秋月種茂の老職岡本勝寛(八郎左衛門)の末男岡本茂十郎を養子とし、兼備とする。 *天明8年(1788年)5月5日、新番入。 *寛政5年(1793年)10月11日、芝西向御屋鋪へ移る。 *寛政5年(1793年)10月20日、一代小番入。 *文化3年(1806年)3月4日、芝牛町出火、芝三御屋鋪御類焼。修復までの間高輪御屋鋪内長屋へ移る。 *文化10年(1813年)4月28日、大御隠居(重豪)に御目見をたまわる。 *文化10年(1813年)5月9日、隠居し、家督を兼備へ譲る。隠居名として『醉好』と名乗り、剃髪。 *文政2年(1819年)9月24日、兼備が大隅国始羅郡帖佐郷地頭に就く。 *文政3年(1820年)8月15日、兼備に従い、江戸から国許へ。 *文政3年(1820年)10月2日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪〔場所は、『鹿児島御城下明細図:索引』塩満郁夫編によると、 No1602 早川安積 外堀の東、竪馬場の西、立野馬場の南と記載されている(なお、フリガナに「ハヤカワアサカ」とあるが、正しくは、「ハヤカワアヅミ」である)。〕に着く。 *文政3年(1820年)10月29日、鹿児島堀之内馬場拝領屋鋪にて死去。享年85〔鹿児島県鹿児島市冷水町の興国墓地内に墓石がある。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「早川兼親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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