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早川 雪洲(はやかわ せっしゅう、本名:早川 金太郎(はやかわ きんたろう)、日本国外での活動名:セッシュー・ハヤカワ(Sessue Hayakawa)〔Sessueは早川本人が考えた「アメリカ人にも覚えやすい綴り」で、本人はこれを「セッシュー」(sesh-oo)と発音していたが、アメリカ人は通称「セッスー」(ses-sue)または「セスエ」(sesu-é)と発音していた。〕、1886年6月10日 - 1973年11月23日)は、日本の俳優。千葉県出身、1907年に21歳で単身渡米し、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった。日本人排斥運動や二度の世界大戦、私生活での混乱などによるキャリアの中断を挟みながらも、晩年の『戦場にかける橋』(1958年)でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど半世紀以上にわたって活躍した国際的映画俳優である。妻の青木鶴子もまたハリウッド草創期の人気女優。 == 生涯 == === 生い立ち === 早川雪洲こと早川金太郎(以下雪洲)は千葉県安房郡千倉町(現・南房総市)千田の出身。1886年(明治19年)6月10日、裕福な網元であった早川家に父與一郎(よいちろう)、母か祢(かね)の間に六人兄弟の三男として生まれる。 七浦小学校尋常科から七浦高等小学校に進み、1901年に当時海軍軍人を目指す少年たちが集まっていた海城学校(現・海城高校、雪洲の編入の前年に海軍予備校から改称していた)に編入した。〔大場俊雄、『早川雪洲 房総が生んだ国際俳優』、pp21-27〕小さいころから習っていた剣道の稽古に加えて、英語の勉強や華道もならうなど忙しい学生生活であった。このころ、雪洲は徳富蘆花の小説『不如帰』に大いに感銘を受け、芝居まで見に行っている〔中川織江、『セッシュウ!』、p67〕。 海城学校卒業後、1904年に予定通り海軍兵学校を受験。一次試験は合格したが、二次試験の前に素潜りで鼓膜が破れ、化膿して顔の半分が腫れた。そのため二次試験に不合格となって、失意のうちに帰郷。絶望のあまりで蔵の二階で割腹自殺をはかったが死にきれなかった。困り果てた父は息子を寺に預けた。〔中川、p72〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「早川雪洲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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