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早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日(1837年9月8日) - 明治34年(1901年)2月18日)は、岩村藩藩医で明治期の日本の官吏、実業家、教育者。丸善、横浜正金銀行、横浜市立大学医学部の創業者として知られる。 == 人物 == 天保8年(1837年)、美濃国武儀郡笹賀村(現山県市)に岩村藩医師・山田柳長の子として生まれ、同村の名主早矢仕才兵衛の養子となる。大垣、次いで名古屋に出て医学を学ぶ。早矢仕自身が優れた医師でもあった。安政元年(1854年)、郷里に戻り医院を開業する。 安政4年(1858年)、江戸に上り開業する。坪井信道に学んだ後、慶應義塾に入塾して福澤諭吉らに蘭学、英学を学び貿易に関心を持つ〔『慶應義塾入社帳 1』(慶應義塾、1986年)97、188頁によると、慶應3年2月12日に慶應義塾に「入社」している。〕。明治維新後の明治元年(1868年)に横浜黴毒病院の医師となり、数ヵ月後の11月10日(12月23日)に書店丸屋を開業するが、当時は仮店舗程度であり、明治2年1月1日(1869年2月11日)付けで「丸屋商社之記」制定し、正式に横浜新浜町(現・尾上町)に書店丸屋を開業した。同年には早くも手狭になり相生町に、明治4年(1871年)には境町(現・日本大通り近辺)に移転する。 創業当初は専ら洋書及び薬品医療器の輸入販売を目標として掲げ、相生町に移転にあたっては薬店である「玉屋薬局」を書店と併設して開業した。 明治5年(1872年)頃に、後に横浜正金銀行頭取となる中村道太が入社し、西洋簿記法を導入することで合理的な経営をめざした。 開業後日本語訳した医学書を中心に販売し、明治3年(1870年)、東京日本橋に店舗を開き、翌年には東京店の隣に唐物店、大阪店を開業し、その次の年には京都店を開業するなどして、事業を拡大する。後に横浜を中心とした貿易商会として、ウラジオストク、ニューヨークに支店を、ロンドン、リヨンに出張所を開設するまでになった。 明治6年(1873年)、故郷の恩人である庄屋・高折善六に謝意を表すべく店名を丸善に改称〔荒俣宏『江戸の幽明』(朝日新聞出版、2014年)99頁。〕。内務省衛生局御用係となり、横浜司薬場設置長となる。輸入書籍や文具を取り扱う大型書店として発展させる一方、明治12年(1879年)、丸家銀行を創設し金融にも進出する。同年の横浜正金銀行の創立願書には、総代中村道太と共に発起人の一人として名を連ねた。丸家銀行は書店業から顧客の信頼を得、山形県の産業振興をめざす山形県の有力者などから資本や預金を獲得したが、明治17年(1884年)に経営が破綻し、早矢仕は責任を取り退陣した。その後、丸善は文房具、書籍販売の本業に経営の力点を焦点化することで経営を再建した。 なお、早矢仕はハヤシライスの考案者とも言われるが、真偽の程は不明である。但し、丸善ではハヤシソースの缶詰が売られている。 早矢仕有的は貿易商人として手広く事業を行い、明治13年(1880年)3月に株式会社となり、有限責任丸屋商会とし、明治8年(1875年)の早矢仕有的の東京移転後、事実上の本店になっていた東京支店を正式に本店としたときには、会社定款で書籍、薬品、舶来雑貨の三科を本業とし、裁縫、家具製造の二科を余業としていた。また先に述べた横浜正金銀行のみならず、日本最初の生命保険会社である明治生命保険会社設立にも関与し、明治14年(1881年)の横浜生糸荷預所の設立出願にも加わり、横浜商人の名士の一人でもあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「早矢仕有的」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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